八戸城・概要: 八戸城は青森県八戸市内丸1丁目に位置している城郭です。 八戸城は建武元年(1334)、南部師行(陸奥国司北畠顕家の国代)が根城(青森県八戸市)を築いた数年後、師行の孫で2代政長の3男である南部信助が根城の支城として築城されたのが始まりとされます。当初は中館と称し根城南部氏の支配下にあり、信助の後裔は中館氏を称して有力家臣として尽力しました。天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置きでは三戸城(青森県三戸町)を本拠とする三戸南部氏だけが豊臣政権下で所領を認められた為、根城南部氏は三戸南部氏に従属しました。
八戸領が盛岡藩の直轄地となると初代藩主である南部信直は八戸地方の中心を根城から中館に移し自ら縄張りをするなど城の改修と拡幅、城下町の計画が行われます。
盛岡藩成立後の寛永4年(1627)、盛岡城(岩手県盛岡市)の支城である遠野城(岩手県遠野市)に移封された事で中館氏も遠野に随行した為、中館は一時廃城となりました(根城南部家は形式的には三戸南部家の家臣でしたが、半独立的な領主の立場を維持し、南部藩にとっては取り扱いにくい存在でした。根城南部家が遠野に移封した事で完全に三戸南部家の家臣団に組み込まれました)。
寛文4年(1664)、2代藩主南部重直が死去すると実子がいなかった事で御家騒動となり、盛岡藩10万石は幕府の裁定により七戸重信(南部重信)が8万石で本藩を継ぎ、中里直好(南部直房)が2万石で八戸藩を立藩する事で決着が着き、以後、歴代八戸南部家(直房→直政→通信→広信→信興→信依→信房→信真→信順)が城主を歴任しています。
八戸南部家は城持大名では無かった為、大規模な城郭は築城できず陣屋構えでしたが天保9年(1838)、8代藩主南部信真の代に北方沿岸警備の功により、城主格に取り立てられ改めて八戸城となります。
明治4年(1871)に廃藩置県の施行により八戸藩は廃藩、八戸城もそれに伴い廃城となり多くの建物は取り壊し、払い下げとなり、現在本丸は三八城公園として整備され八戸藩2代藩主南部直政が創建した南部家の祖である新羅三郎義光命や南部三郎光行命、南部左衛門佐直房命などが祭られている三八城神社が鎮座し、二の丸は市街地になっています。
又、八戸城は源義経北行伝説の舞台の1つでもあり城内には義経の家臣である武蔵坊弁慶が蹴り上げたと伝わる弁慶石が安置されてます(以前は義経石もあったとされます)。
八戸城・縄張り: 八戸城は大きく本丸と二の丸で構成され本丸は東西約150m、南北約200mの規模で周囲を水堀と土塁で囲い、郭内には藩主居館と藩庁、米蔵、武器蔵などが配置され二の丸とは東と南の2箇所に門を設けていました。
二の丸は家臣の屋敷や藩校、おがみ神社(当時は法霊社、4代藩主南部広信が長者山新羅神社への神輿の渡御を認めた事が八戸三社祭りの始まりとされます)、八幡宮(南部家の氏神)、豊山寺(八戸南部家の祈願所)などがあり、城下とは南と東南の2箇所に枡形門があり、おがみ神社と中里家の背後に木橋と思われる橋が架かっていました。
八戸城は城下町から見ると平城で北、西、東側の3方が崖地となり周囲を土塁と堀で囲まれ、正面南側だけが開け、八戸城に近い横堀丁、馬場丁、堤丁、常海丁、宝丁、下番丁、中番丁、上番丁、本徒士丁、徒士丁などには中級武士が配され、中心部が町人町、城下に入り込む街道出入り口付近には下級武士や足軽屋敷が配されていました。
八戸城・遺構: 八戸城の遺構である角御殿表門は寛政9年(1797)に御者頭煙山治部右衛門が建てたもので切妻、銅板葺、棟門形式、棟札(寛永9年:1632年・嘉永4年:1851年・明治42年:1909年)の他、像高3.6cmの毘沙門天像が安置されている格式の高い建物で昭和56年(1981)に青森県重宝に指定されています。
又、現在、根城公園の入口にある城門は八戸城の東門とされ、安政6年(1857)の強風で大破した為、南部家の家臣木幡家の表門として建替えたものを根城公園に移築したとされます。
形式は切妻、こけら葺き、三間一戸、薬医門、数少ない八戸城の遺構として貴重な事から平成5年(1993)に八戸市指定文化財に指定されています。又、この東門は元々根城の城門として建てられたもので根城が廃城になった際に八戸城に移されたとの伝承が残されています。
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