三戸城(留ヶ崎城)概要: 三戸城は中世南部氏本家の居城だった城郭です。南部氏は甲斐源氏の一族で当初は現在の山梨県南部町周辺を領していましたが文治5年(1189)に行われた奥州合戦で源頼朝に従い功を挙げ青森県から岩手県にかけての糠部郡一帯を与えられました。
当初は聖寿寺館(南部町・国指定史跡)に居を構えていましたが、天文8年(1539)家臣である赤沼備中が反旗を翻し聖寿寺館を放火した事で焼失、新たに三戸城を築き居城を移ったと考えられています。
天正10年(1582)、25代当主南部晴継が僅か13歳で暗殺(諸説あり)されると南部信直(石川高信の庶長子、当初は24代当主南部晴政の養子となっていましたが晴継が生まれた為には廃嫡された)が三戸南部家の名跡を継ぎ26代となっています。
南部信直は天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原の陣への参陣や奥州仕置きに随行した事で近代大名としての基礎を固め、南部七郡(糠部郡・岩手郡・紫波郡・稗貫郡・和賀郡・閉伊郡・鹿角郡)が認められました。
それに伴い三戸城も近代的な城郭へと大改修され、石垣や家臣達の居館、三層三階の御三階櫓が設けられ整備されましたが天正19年(1591)九戸の乱後は平城で豊臣家の奥州仕置軍ですら力攻めで落とす事が出来なかった九戸城(福岡城)に居城を移し三戸城には城代を置いています。
跡を継いだ南部利直は慶長5年(1600)の関が原の戦いで東軍として与した為、領地安堵が認められ盛岡藩を立藩、同じく津軽氏も弘前藩を立藩し、さらに南方は仙台藩領に接する事もあり、本城を盛岡城(岩手県盛岡市)と定め寛永10年(1633)に正式に藩庁を盛岡城としています。
三戸城には引き続き城代を置いて城郭として維持されていましたが、貞享年間(1684〜1687年)からは麓に代官所を設け代官支配となりました。
三戸城の縄張り: 三戸城は標高130m(比高:約90)の独立丘陵に築城された連郭式山城で両側には馬淵川と熊原川が外堀に見立てられ、両川が浸食した岩壁は天然の要害を呈していました。大きさは南東が400m、西南が1.5kmの規模を誇り、山頂に設けらた本丸を中心に大手筋である南東側には重臣の屋敷、裏手である北東側には直臣屋敷が配され、本丸には御三階櫓が設けられました。
大手筋正面には物見台、それを越えると虎口である網御門があり背後には武者溜が設けられました。鳩御門も虎口で向かって左側には桜庭邸があり、その1段上部の郭には目時邸と北邸、さらに上部には東邸、石亀邸がありました。欅御門の内側には南部政直邸、南部利康邸、石井邸、鳥谷邸があり大御門の内側に本丸、谷丸、淡路丸といった主要施設が設けられました。本丸背後の搦手には陸奥与四郎邸、鶴池、亀池などがありました。
三戸城の遺構: 現在の三戸城跡には明治時代勧請された糠部神社や昭和42年(1967)に「温故館」という模擬天守が築かれ、平成元年(1989)には綱御門が復元されるなど城山公園として整備されています。
又、遺構として搦手門が法泉寺の山門として、表門が竜川寺の山門として、代官所門が観福寺の山門として、それぞれ移築されています。
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