鰺ヶ沢町奉行所(御仮屋)概要: 鰺ヶ沢湊は古くからの天然の良港として知られ、元和8年(1622)には弘前藩(藩庁:弘前城)2代藩主津軽信牧が藩内の良港を津軽四浦(青森・鰺ヶ沢・深浦・十三湊)に指定しそれぞれ町奉行所が設置されました。特に鰺ヶ沢湊と青森湊は弘前藩の本城がある弘前城の外港として特に重要視され、日本海の西廻り航路が開削されると北前船の寄港地として藩内の年貢が集められ上方に運ばれました。町奉行の役割としては湊出入詮議や災害時の救助、被害報告、御役銭の取立て、荷物改め、御普請の監督、軍艦の管理などが行われ、藩主の巡視の際には休息所や宿泊所となりました。
その為、町奉行所敷地内には藩主専用の御座間、ニノ間、三ノ間、屯ノ間、御湯殿などが設けられ「御仮屋」や「御城」と呼ばれ建坪160坪の規模を誇りました。
一国一城令が発令されている中、形式的には弘前城以外の城は認められなかった為、「御仮屋」は事実上の陣屋として機能し背後の天童山館が詰城として機能したと思われます。明治2年(1869)、廃藩置県を前に奉行所は廃され、現在の鰺ヶ沢町奉行所跡地は保育園や裁判所となり"城の下の井戸"以外は目立った遺構はありません。
城の下の井戸は津軽信隆(信牧の弟)が天童山館に配された時に掘られたもので、町内には神明宮下・庚申堂下・七ッ石沢(亀井戸)・寺町・浜町・願行寺境内の7箇所設けられましたが水道が普及すると姿を消し現在は神明宮下と浜町だけになってしまいました。
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