大間越街道: 鯵ヶ沢宿(種里城・くろくまの滝)

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概要・歴史・観光・見所
鯵ヶ沢宿概要: 鯵ヶ沢は大間越街道の宿場町である鯵ヶ沢宿共に北前船の寄港地として発展しました。古くは阿部比羅夫(越国守・後将軍・大宰帥)が東夷東征の際、寄港地として上陸した港であった事から7世紀には既に知られた存在だったと思われます。大浦(南部)光信が当地に配されると鯵ヶ沢港の重要性に考慮してその上流には居城となる種里城を築きます。光信は種里城を中心に周辺地域を掌握し、当時敵対していた安東氏の侵攻を押えるなど大きな役割を果たし、その後裔は弘前藩を立藩した津軽(大浦)為信にあたる事から津軽家の祖と位置付けされ、種里城は弘前藩発祥の地とされ江戸時代を通して聖地化されています。中世は安東氏が支配する十三湊が「三津七湊」に数えられるなど全国的にも知られた存在で津軽地方最大の港でしたが、南部氏の侵攻により安東氏が津軽の地より追い出されると、次第に衰微し、代わって鯵ヶ沢湊が重要性が高まり津軽地方を席巻した大浦為信も鯵ヶ沢湊を利用して外交政策を行い重要視されました。鯵ヶ沢宿江戸時代に入り弘前城が築かれると、鯵ヶ沢湊は弘前城の外港という位置付けとして、重点的に整備され特に、岩木川舟運によって藩内の年貢米が十三湊に一端集められ、さらにそこから鯵ヶ沢湊まで沿岸海運(十三小廻り)で運ばれ、ここで北前船や弘前藩の藩船に積み代えられ京都や大坂に運ばれていきました。延宝3年(1675)に編纂された「鰺ヶ沢港船着岸控」によると当時の鯵ヶ沢湊には商業船が70艘、藩の船が60艘の出入りがあったとされ、青森湊から年貢米が2万石搬出されたのに対し、鯵ヶ沢湊では7万石と実に3.5倍の開きがありました。弘前藩でも4浦、9浦に選定するなど重要視した為、鰺ヶ沢町奉行所や御仮屋(藩主宿所)などが設置されています。鯵ヶ沢宿宝暦年間(1751〜1764)には廻船問屋12軒が建ち並び能登屋清兵衛や山形屋弥五郎などの大商人を排出し幕末には遊女が400名程存在し遊郭としても発展しました(江戸後期に編纂された全国の遊郭番付である「諸国遊所競」では前頭四段目筆頭に格付けされています)。鯵ヶ沢に齎された物資や文化は大間越街道により弘前城の城下町をはじめ領内全域に広げられ大きな役割を持ちました。白八幡宮の境内には船問屋から寄進された玉垣(船の錘に利用した御影石)や船絵馬などが見られ往時の名残を見せています。又、往時は白神山地の伏流水が町のあちこちから湧き出した町で造り酒屋なども発展しました。

鯵ヶ沢町奉行所: 鯵ヶ沢町奉行所元和8年(1622)、弘前藩2代藩主津軽信牧が津軽4浦を選定した際、設置されたもので当地域の行政施設と共に、藩主の宿所である御仮屋も併設していました。弘前藩では他藩で見られる陣屋や本陣がなかった為、参勤交代の際は御仮屋で休息や宿泊を行い、施設の周囲は木柵や土塁で囲い防衛的な拠点にも成り得ました。大間越街道は江戸時代初期には参勤交代で利用されている事から重要視されていたと思われます。町奉行所の役割としては、案内板によると「・・・・1、湊口出入詮議。1、災害時の救助態勢手配、被害報告。1、湊の御用、御役銭取立て、荷物の改め。1、御普請の監督。1、お早船(藩の軍船)の管理全般。1、勤務時間は9時から3時まで。・・・」とあります。

白八幡宮: 白八幡宮白八幡宮は大同2年(807)に坂上田村麻呂が当地に進軍してきた際に戦勝祈願の為に開かれたの始まりとされます。境内は阿部比羅夫が日和地として、ここから海上を眺めたとされ、阿倍比羅夫が腰掛けたという伝承が残る「比羅夫石」があります。鯵ヶ沢湊は北前船の寄港地として繁栄した土地柄だった事から常灯碑(鰺ヶ沢町指定有形文化財)や玉垣(鰺ヶ沢町指定有形文化財)、白八幡宮奉納船絵馬群(鰺ヶ沢町指定有形文化財)など当時の湊に関わる文化財が多く、関係者から篤く信仰されています。又、歴代領主からも崇敬庇護され、特に弘前藩主津軽家から社領や社宝の寄進や社殿の造営が行われ鯵ケ沢総鎮守の格式を与えられていました。例祭である白八幡宮神輿渡御は、「津軽の京まつり」の別称があり鯵ヶ沢町指定無形民俗文化財に指定されています。

種里城: 種里城種里城の築城は延徳3年(1491)、南部光信によって築かれたのが始まりとされ、鯵ヶ沢を河口に持つ赤石川の上流に位置し、標高約70m程の山頂に築かれた山城です。本丸を中心に幾つかの郭があり、城下町にあたるセツバヤシキ地区、下門前地区、上門前地区の3地区が町割され、菩提寺である長勝寺や祈願所となった海蔵寺、鎮守社となった種里八幡神社、家臣屋敷などが配されました。光信が死去すると遺言により甲冑を着込み立ったまま埋葬されたとされ、江戸時代を通じて弘前藩主津軽家の聖地として管理され、配置された家臣により毎日清掃された事で墓域は「草一本生える事がない」とも云われました。種里城には建物などの遺構はありませんが、土塁や空堀、郭の形状などが残り、歴史的な意義が高い事から平成14年(2002)に国指定史跡に指定されています。

くろくまの滝: くろくまの滝くろくまの滝は日本100名滝に選定されている名滝で、高さ約85m、幅15mは青森県内最大級を誇ります。日本の滝百選は、平成2年(1990)に当時の「緑の文明学会」、「グリーンルネッサンス」、「緑の地球防衛基金」の3団体が環境庁と林野庁の支援を受けて企画したもので、各自治体から応募があった527滝から大石武一(元環境庁長官)、兼高かおる(評論家)、岸根卓郎(京都大学名誉教授)、小松左京(作家)、高橋延清(東京大学名誉教授)、永瀬嘉平(滝の研究家)、三島昭男(文明評論家)、福岡克也(幹事・立正大学教授)の8名が選定委員となり100滝を選定したものです。選定者には滝の専門家が1人しかおらず、観光地の奨励といった意味合いが強いと云われ、各県バラつきを少なくし観光地に適した滝が選定されています。ただし、くろくまの滝は青森県を代表する滝である事は間違いなく壮観な景観を作り出し見ごたいもあります。



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