大間越街道: 深浦宿

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概要・歴史・観光・見所
深浦宿(円覚寺)概要: 深浦宿は大間越街道の宿場町である共に北前船の寄港地深浦宿として発展しました。奈良時代に蝦夷を従わせる為に当地まで進軍してきた阿倍比羅夫が一定の成果を得て浮代(能代)郡と津軽郡の境を定めた事を記念して有間浜で渡島(蝦夷地=北海道)の蝦夷達と饗応(酒や食事などを出してもてなすこと。)したとされ、その有間浜とは深浦の東川の河口にある吾妻浜と推定されています(ただし、有間浜は岩木川河口の十三湊だったとの説もあります)。中世に入ると十三湊を本拠に日本海沿岸で大きな勢力を持った安東氏の領地となり深浦は南端の拠点として重要視されました。当時の深浦湊は安東浦の別称があり安東水軍の拠点だったと推測され、湊に程近い弁天島(深浦町指定名勝)は「安東船守護深浦弁天島」と称されていました。安東氏が南部氏に追われ津軽の地から去ると、深浦宿同じく南部氏に追われた葛西木庭袋伊予守頼清が文亀年間(1501〜1503年)に深浦に入り円覚寺の堂宇を再建するなど尽力しますが、天文2年(1533)南部高信に攻められ没落し一族の後裔が当地に帰農していました。その後、深浦(千葉)氏が支配しましたが天正年間(1573〜1593年)に大浦(津軽)氏により滅ぼされ、以後大浦氏が支配しました。江戸時代に入ると弘前藩の重要港として2代藩主津軽信枚の代には津軽4浦(青森湊鰺ヶ沢湊十三湊・深浦)に、4代藩主津軽信政の代には津軽九浦(青森湊・蟹田湊・鯵ヶ沢湊・深浦湊・十三湊・今別湊碇ヶ関関所大間越関所野内関所)に指定され、港を見下ろせる高台には御仮屋(無為館)が築かれ、その直下には町奉行所や御蔵など藩の出張所が設けられました。特に江戸時代初期には大間越街道が弘前藩や松前藩の参勤交代で利用された事から宿場町としても整備されています。深浦宿深浦湊は行合崎と入前崎に囲われた天然の良港で北前船が盛んになると風待ち湊として多くの商船、漁船が深浦湊を利用するようになり、町には数多くの舟問屋が出現し、江戸時代前期には100戸前後だった家屋も江戸時代末期には約3倍の300戸前後に発展しています。深浦湊は慶安2年(1649)に編纂された「道筋台帳」には湊の幅は154間(約277m)、奥行200間(約360m)、水深8〜9尋(約14.5m〜16.4m)の規模があり、蝦夷地と大坂や京都までの中継地として多くの物資が行き交い活気のある湊とでした。又、江戸時代の紀行家菅江真澄縁の地でもあり、深浦の有力商人だった竹越里圭宅に逗留し円覚寺薬師堂内厨子の様子や湊には100艘の弁財船(北前船)が停泊した様子などが著書である「外ヶ浜奇勝」に記載されています。菅江真澄にとって深浦が津軽での最後の地で、湊から船にのって久保田(秋田)藩の土崎港に向かっており、別れ際には真澄に世話になった老若の男女60人が湊まで見送りにきたとされています。

円覚寺: 円覚寺深浦港に面した場所に位置し古くから港と深い繋がりを持ってきた寺院です。創建は大同2年(807)に坂上田村麻呂により観音堂が建立されのを起源とし、貞観10年(868)円覚法印によって寺観が整えられたとされます。歴代領主である藤原基衡、藤原氏家、葛西頼清、歴代弘前藩主津軽家などが篤く帰依し、寺領の寄進や堂宇の造営などが随時行われています。特に、深浦湊を利用する関係者から信仰の対象となり本尊の十一面観音は澗口観音の別称を受け、熱心に拝むと遭難しそうになると光を照らし出し危機を救うと信じられてきました。寺宝も船問屋や湊関係者からの寄進されたものが多く船絵馬や北前型弁財船絵馬など106点が「円覚寺奉納海上信仰資料」として昭和56年(1981)に国指定重要有形民俗文化財に指定されています。又、津軽三十三観音霊場第10番札所でもあり江戸時代中期以降は札所巡りとしても多くの参拝者が訪れ寺運が隆盛しました。

御仮屋(無為館): 御仮屋(無為館)寛永12年(1635)に深浦湊が津軽4浦(青森、鰺ヶ沢、十三湊、深浦)に指定され、町奉行所が設けられた前後に築かれたと推定されています。弘前藩(本城:弘前城)では他藩で見られる陣屋や本陣が設けられなかった為、木柵や土塁を設けた御仮屋が藩主の宿所とされ、参勤交代や領内巡視の際に利用されました。特に深浦の御仮屋は湊を見下ろせる高所に設けられ風光明媚だった事から弘前藩9代藩主寧親は「無為館」と名付けました。無為とは老荘思想の基本的立場を表した言葉である「無為自然」に肖ったものとされ、御仮屋から見た風景が人工的ものを排除し、より自然の姿に近づこうとする考え方や思想に共感するものがあったと推測されます。深浦十二景(吾妻濱錦石・猿神鼻夕照・無為館松風・崩濱岩清水・櫻澤春曙・磯崎川納涼・観音堂霊木・岡崎山暮雪・入前崎帰帆・平島白鴎・笠形山秋月・宝泉寺晩鐘)にも「無為館松風」としても選定され、昭和49年(1974)には深浦町指定史跡に指定されています。



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