奥州街道(青森県)概要: 青森県の奥州街道は三戸宿から三厩宿までで、青森宿又は油川宿から北を松前道や松前街道、上磯街道、外ヶ浜道、三厩街道などの別称がありました。松前藩は当初、参勤交代の際、津軽半島の小泊まで船で渡航し大間越街道と羽州街道で南下し江戸に至っていましたが、記録が明確なものとしては元禄5年(1692)の江戸から帰国の際に奥州街道を北上し最終の宿場町である三厩宿から船で津軽海峡を渡航して松前に至っています。その後の松前藩の参勤交代では奥州街道を利用しましたが、行程は海路がある為に不安定で概ね1ヶ月前後かかる事から、他藩と比べても格段に費用が嵩み幕府からの特例として5年毎の参勤が認められていました。弘前藩は南部藩との確執等から参勤交代は当初から奥州街道は利用せず、領内巡視などに利用は限られていました。南部藩にとっては要地で代官所を設けた五戸宿や七戸宿や野辺地港、田名部港(野辺地から田名部街道に分岐)を結ぶ大動脈で重要視されました。
奥州街道の宿場町: 三戸宿は中世、三戸南部家の居城である三戸城の城下町として発展した町で、本拠を盛岡城に移した後も重要視され、三戸城の麓には代官所が設けられ当地方の行政、軍事の拠点となりました。同様に五戸や野辺地にも盛岡藩の代官所が設けられ、明治初頭には五戸地区が会津藩の後継である斗南藩領となり五戸代官所は一時斗南藩の藩庁が設置されています。七戸は江戸時代末期に七戸藩が立藩し、藩庁が置かれた七戸城の城下町として発展しました。馬門宿は盛岡藩と弘前藩の藩境に隣接していた事から藩境塚(青森県指定史跡)や馬門番所が設けられ、戊辰戦争の際は馬門宿から野辺地宿にかけてが所謂野辺地戦争の激戦地で多くの被害を受けました。浅虫温泉は奥州街道沿いにある名湯で、藩主が当地に巡視した際は入湯を楽しんだとされ庄屋である木村家本陣件御殿湯を担っています。2代藩主津軽信牧も浅虫温泉を利用し御殿湯を「柳の湯」と名付けたと伝えられています。野内宿は弘前藩領内で津軽三大関所に数えられた野内関が設置され、人物改めや荷改めが厳重に行われました。青森宿は弘前藩内4浦に数えられた青森湊を控え藩主の御仮屋や代官所が設置され経済的にも繁栄しました。油川宿で羽州街道と合流し、青森湊が整備される以前は油川湊が繁栄していました。三厩宿は津軽海峡へ渡る為の風待湊である三厩湊を控えていた為、松前藩の本陣が設置されていました。
スポンサーサイト
奥州街道(青森県内)のルート
三戸宿-五戸宿-伝法寺宿-藤島宿-七戸宿-野辺地宿-馬門宿-小湊宿-野内宿- 青森宿-油川宿-蓬田宿-蟹田宿-平舘宿-今別宿-三厩宿
奥州街道(青森県の見所)
|