野内番所跡(青森市)概要: 野内番所の成立年は不詳ですが概ね元和年間(1615〜1624年)頃までに整備されたと思われます。野内は奥州街道の宿場町で、盛岡藩に接していた事もあり番所が設けられ人物改めや荷物改めが行われました。特に弘前藩主の津軽家と盛岡藩主の南部家とは戦国時代に主従の関係があり大浦(津軽)為信の裏切りにより弘前藩が成立した歴史から常に緊張関係にあり野内番所の重要性が窺えます。当時の弘前藩には羽州街道沿いの碇ヶ関関所、大間越街道(西浜街道)沿いの大間越関所があり、野内番所と合わせて津軽三関と呼ばれ重要視され、その後、弘前藩の重要拠点として鯵ヶ沢、深浦、青森、十三湖、今別、蟹田、碇ヶ関、大間越、野内が津軽9浦が指定され町奉行所などの藩の出先機関が設けられました。
野内番所と奉行所は同一敷地内に設置され町奉行2人、勤番目付1人が弘前藩から派遣され町同心警固1人、町同心5人、町年寄2人が野内出身者が出仕しました。明暦2年(1656)に黒石藩が立藩すると平内地方が黒石藩領になった為、野内番所は奥州街道を挟んで両側に1箇所づつ設けられ、弘前藩、黒石藩それぞれが管理するようになっています。
番所の規模は貞享4年(1687)の野内村検地帳によると弘前藩側を「屋敷、弐拾四間・弐拾間 壱反四畝拾弐歩 御番所」、黒石藩側を「采女様屋敷、弐拾八間・弐拾間 壱反八畝弐拾歩 御番所」と記載され天明8年(1788)に津軽を訪れた古川古松軒が著した「東遊雑記」に「青森より東二里 野内村といふ所に津軽候の関所ありて往来の人を改むる」と記載しています。又、野内宿の枡形跡に当時の松並木が残されており当時の奥州街道の宿場町の様子が僅かに残っています。
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