青森市: 浪岡八幡宮

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概要・歴史・観光・見所

浪岡八幡宮(青森市)概要: 浪岡八幡宮は青森県青森市浪岡浪岡林本に鎮座している神社です。浪岡八幡宮の創建は延暦12年(793)又は大同2年(807)に征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂が開創したと伝わる神社です。

伝承によると田村麻呂が蝦夷討伐で当地まで進軍した際、思いもよらず苦戦し、戦勝祈願と国家安寧の為に宇佐八幡宮(八幡総本宮:大分県宇佐市)の神霊を当地に勧請し行岳蒐狭大神宮と称したのが始まりとされます。貞観7年(865)に修築が行われ、室町時代に入ると浪岡城の城主北畠氏から信仰されました。

北畠氏は村上源氏の後裔とされ南北時代に南朝に与しその後当地に下向して浪岡城を築くと京都の町並みに模する為に浪岡城の周囲に祇園神社(現在の北中野広峰神社)、八幡神社(現在の浪岡八幡宮)、加茂神社(現在の五本松加茂神社)、春日神社(廃社)などを配しました。

浪岡城は浪岡北畠氏7代目当主とされる北畠具永が大きく拡張した推定され、現在も祭られている加茂神社と広峰神社の両社が具永によって社殿が造営されている由緒を伝えている事から浪岡八幡宮も何らかな庇護を受けていた可能性があると思われます。

浪岡八幡宮は北畠氏の崇敬社と庇護され吉野朝の天皇の御緒太が奉納され主席家老の赤松隼人が祭祀を司りました。天正6年(1578)には大浦為信の侵攻により浪岡城は落城すると浪岡八幡宮もその兵火と庇護者の没落により衰微したと思われます。その後に領主になった大浦氏(津軽氏)が再興し、江戸時代に入ると弘前藩の藩主となった津軽家が祈願所として庇護しました。

藩祖となった大浦為信は南部家の一族である久慈氏出身で、南部家は元々甲斐源氏の後裔だった事から、津軽家は公式では無いにしろ源氏の氏神である八幡神を信仰していたと思われ、特に浪岡八幡宮、弘前八幡宮弘前市)、白八幡神宮鰺ヶ沢町)は「津軽三八幡宮」と称され特に崇敬されました。

又、浪岡八幡宮は本城である弘前城から北方にあたる為、四神相応の玄武(北方の守護神)に相応する説を唱える人もいます。

慶長19年(1614)に2代藩主津軽信枚が社殿を再建、寛永15年(1638)には3代藩主津軽信義が社殿を再建、以後、元禄、寶暦、寛政、嘉永の改修には藩費によって賄われました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃されると郷社に列し、昭和13年(1938)には県社に昇格しています。

「浪岡八幡宮再興棟札」、「浪岡八幡宮葺替鳥居新造棟札」、「浪岡八幡宮新造棟札」が貴重な事から青森市指定有形文化財に指定されています。津軽大北斗七星。祭神:誉田別尊。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(由来)-浪岡八幡宮社務所

浪岡八幡宮:写真

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