【 概 要 】−弘前藩3代藩主津軽信義は元和5年(1619)に弘前藩2代藩主津軽信枚と辰姫の長男として生まれました。津軽家は奥州仕置き以後、豊臣系大名として知られ、特に豊臣家の間を取り持った石田三成と深い関係にありました。関ヶ原の戦いでは津軽家の生き残りを図る為、兄である津軽信建は西軍、信枚は東軍に与し、東軍が勝利すると信建を通じて三成の子息達が密かに弘前藩に逃れ、信枚が後継ぎ候補となりました。信枚は慶長15年(1610)頃、三成の3女で高台院(豊臣秀吉正室)の養女でもある辰姫を正室に迎えたものの、慶長18年(1613)には徳川家康の養女である満天姫を正室としました。
辰姫は側室に格下げ、さらに弘前城を追われ飛び地である上野国大館(群馬県太田市)の陣屋に遷され、そこで信義を出産しました。寛永8年(1631)に信義が家督を相続すると、豊臣系の血筋だった事もあり、徳川系の満天姫の子供である津軽信英とは対立関係にあり、寛永11年(1634)には船橋騒動、正保4年(1647)には正保騒動が発生しています(兄弟仲は比較的良好だったとも云われますが、それぞれの派閥の対立は激しく多くの家臣達が処罰を受ける結果となっています)。
寛永8年(1631)、津軽信義は弘前藩産業興隆制作の一環として川越源右衛門に命じて雲谷で牧場を開設させ、さらに寛永15年(1638)には家臣(竹森六之丞、森山内蔵助)に命じ馬の専門家である倉内図書を召喚し津軽坂に牧場を、承応2年(1653)には三上茂兵衛に命じて枯木平に牧場を開かせています。正保2年(1645)には大川(岩木川)・十川を改修するなど治水工事を積極的に行った事で、新田開発が進められ、下柏木村や板屋野木村、鶴田村などが開村しています。
慶安3年(1650)には尾太鉱山(、青森県中津軽郡西目屋村にあった金属鉱山)の採掘が始まり、承安2年(1653)には信義が視察し藩を挙げて開発に取り組んでいた事が窺えます。慶安2年(1649)に弘前城下に発生した大火により多くの寺院や建物が焼失すると寺町移転を計画し新寺町を新たに町割りを行っています。又、遊興施設として大鰐温泉を湯治場として整備し藩主の宿所である御仮場も設けています。明暦元年(1655)11月25日、江戸神田邸にて死去。享年37歳。戒名:桂光院殿雪峰宗瑞大居士。
津軽信義は社寺の造営も実績を残し、寛文8年(1668)又は寛文12年(1672)に弘前藩成立まで多くの戦で命を落とした家臣達や新田開発で犠牲となった農民達の供養の為に三柱神社(川倉芦野堂)を創建、明暦元年(1655)には乳井神社(乳井毘沙門堂)の社殿を造営、正保3年(1646)には貞昌寺に辰姫の墓碑を建立、寛永年間(1624〜1644年)には福寿院の本堂を再建、晩年には大円寺(現在の最勝院)の五重塔の造営(完成は津軽信政の代)しています。
慶安4年(1651)には羽黒神社を勧請、寛永17年(1640)に岩木山神社の拝殿を造営(内部に設置されていた厨子堂も信義が造営し現在は長勝寺に遷されています)、寛永15年(1638)には浪岡八幡宮の社殿を再建、寛永18年(1641)には古懸不動尊(国上寺)の堂宇を建立、同年4月には家臣森山蔵之助に命じて善知鳥神社の社殿を造営し、任期中に多賀神社(清水観音堂)の参道の石段を寄進、社寺の保護としては寛永11年(1634)に久渡寺に寺領100石を寄進しています。
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