【 概 要 】−津軽信寿は寛文9年(1669)、弘前藩4代藩主津軽信政と不卯姫(三河西尾藩初代藩主:増山正利の長女)との間に生まれ、宝永7年(1710)に信政の死去に伴い津軽家当主の跡を継ぎ、弘前藩5代藩主に就任しました。一般的な評価としては行政長としての実績が少ない一方で文化人、武芸家としては一流で極端な浪費癖から藩の財政悪化を招き徳川吉宗から不興を買い享保16年(1731)に隠居しています。領内では温泉巡りが盛んに行ったとも云われ、享保9年(1724)に温湯温泉を訪れた際には法眼寺の所管の薬師堂を参拝し「瑠璃山薬師寺」に寺号を改め寺院として再興したと伝えられています。その他の文化面での顕著なものは正徳5年(1715)、享保9年(1724)、享保11年(1726)に弘前城に桜を植樹し、現在弘前城が桜の名所になった基礎となり、享保5年(1720)には報恩寺で「眠流」を高覧された事が現在発見されている「ねぶた祭」の最古の記録と云われています。
津軽信寿は小野派一刀流の小野次郎左衛門忠於・忠一に師事し、忠一から一刀流一子相伝を受け6代目を就任した実力者だったとされます。これにより一刀流正伝は小野家から津軽家に遷った事になりますが、信寿が老齢になると宗家である小野家に一刀流正伝が伝わらない事に憂い、忠一の孫小野次郎右衛門忠方に「返伝」を行い、小野家、津軽家共に正伝を伝える事になりました(返伝を受けた事で、忠方を6代目とする場合もあります)。
文化人としては画を狩野派の狩野常信や独特な画風で知られた英一蝶から学び「中国皇帝図」などが残されています。特に英一蝶は頻繁に吉原遊廓に通い客だけでなく幇間としても活動していた事から、同じく吉原に家臣を連れ立って浪費していた信寿とは息が合ったのかも知れません。狩野常信の弟子で常信門下四天王に数えられた新井寒竹常償は弘前藩の御抱え絵師に採用され、彼の描いた絵馬(青森県指定有形民俗文化財)を信寿が高照神社に奉納しています。書や詩歌は佐々木玄龍に学び「軍鑑」の作品が残されている他、享保16年(1731)には代表作である「独楽徒然集」が発刊しています。独楽徒然集は上冊(春夏)、下冊(秋冬)で構成され、それぞれ季節が感じられる詩歌・俳諧の句、挿絵が収められています。
小川破笠との関係も深く、江戸弘前藩邸下屋敷(東京都墨田区錦糸1丁目)と破笠の邸宅が比較的近所だった事から偶然露店で売っていた作品を見たとも、遊女屋の店主が推薦したとも、共通の知人である英一蝶と関わったとも云われますが、とにかく無名だった小川破笠の才能を見出した津軽信寿が弘前藩のお抱えに採用した事から一気に人気作家の仲間入りをしています。
弘前藩行政での津軽信寿の実績は少なく、現存する最大ものは津軽信政の御霊を祭る為に正徳元年(1711)に創建した高照神社で、津軽家が総力を挙げて造営した岩木山神社に次ぐ規模と格式を持っています。現在でも信寿が正徳2年(1712)に造営した本殿と中門、西軒廊、東軒廊、幣殿、正徳元年(1711)に造営した廟所拝殿が残され何れも国指定重要文化財に指定されています。又、享保4年(1719)には大石神社の社殿を造営し、宝永7年(1710)には乳井毘沙門堂(現在の乳井神社)、正徳4年(1714)には金竜山南台寺に梵鐘を寄進しています。
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