【 概 要 】−津軽信寧は元文4年(1739)、弘前藩6代藩主津軽信著とぬい子(田中久右衛門女)との子供として生まれました。延享元年(1744)、信著が死去すると津軽家の家督を継ぎ弘前藩7代藩主に就任しています。寛文2年(1749)、宝暦5年(1755)、天明3年(1783)に大飢饉、明和3年(1766)には大地震の為、弘前城に大きな被害を被るなど藩の財政が逼迫しています。
弘前藩の勘定奉行である乳井貢が行った当初の改革は一応の成果を挙げた事から信寧の信任を得ましたが、権力を持ち始めると好のある豪商に便宜を図り、さらに満を持して発行した標符が大量の偽物が出回った事で信用を落とし、賃借無差別令を発令した事で領内の経済が大きく混乱しました。耕春院(現在の宗徳寺)の住職覚源和尚は信寧の政策を見かね、松平忠恒(信寧の叔母英姫の婿)に相談、それに応じた忠恒は信寧に改善を求めました。これにより乳井貢は失脚、信寧自ら改革に乗り出そうとしましたが天明4年(1784)死去、享年46歳、戒名:戒香院殿梅渓常薫大居士。
幕府での役負担は主に神田橋門番と本所火消役を担っており、宝暦11年(1761)には勅使饗応役、安永2年(1773)には勅使・女御使馳走役を命じられています。津軽信寧の弘前藩の実績としては宝暦5年(1755)に高照神社(青森県弘前市)拝殿を造営、宝暦6年(1756)に弘前城三の丸御膳屋敷で「ねふた」を高覧、明和3年(1766)に舞戸正八幡宮を赤石組(現在の鰺ヶ沢町と深浦町)の鎮守祈願所に指定、宝暦11年(1760)に9代将軍徳川家重の追善供養の為江戸の増上寺(東京都港区芝公園)へ奉納(現在は青森県青森市に境内を構えている正覚寺に移設)、明和8年(1771)には深く帰依していた善寿院(青森県)深浦町の観音堂を再建(善寿院は明治時代初頭に発令された神仏分離などで廃寺となり現在は見入山観音堂と呼ばれています)、安永3年(1774)には海童神社と鶴田八幡宮を赤田組の祈願所に指定し社宝を奉納しています。
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