津軽順承(順徳):概要

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概要・歴史・観光・見所
津軽順承(熊野奥照神社:拝殿)

【 概 要 】−津軽順承は寛政12年(1800)、吉田藩(愛知県豊橋市今橋町)の藩主である松平信明と千枝(久須美氏の娘)との子供として生まれました。文政4年(1821)、黒石藩(青森県黒石市)初代藩主津軽親足の養子となり、文政7年(1824)に11代将軍徳川家斉に拝謁、文政8年(1825)に親足が隠居した事に伴い黒石藩2代藩主に就任しています。天保元年(1830)に行われた「ねぷた祭」では見物の為に弘前城の城下を訪れています。

天保10年(1839)、黒石藩の本藩である弘前藩(青森県弘前市)の10藩主津軽信順が日頃からの行いが良くなかった事が幕府から指摘され強制隠居処分となった為、順承が養嗣子となり津軽家宗家の家督を継ぎ、弘前藩11代藩主に就任しています。順承は津軽家の血筋では無かった事から当初は反発する家臣も多く、天保13年(1842)には前藩主である信順が中心となり順承の廃立を画策しましたが、失敗に終わり信順以外は粛清されています。

当時の弘前藩は9代藩主寧親と10代藩主信順が浪費家で飢饉に対しても有効な手段を採っていなかった事から財政が破綻寸前で領内も荒廃し多くの領民が苦しんでいた為、名君として知られていた8代藩主津軽信明の政策に習った藩政改革が断行されました。特に順承は美濃国岩村藩(岐阜県恵那市岩村町)出身の著名な儒学者で昌平坂学問所の塾長である佐藤一斎に師事(門弟には佐久間象山、渡辺崋山など多数)した事で聡明で、怠惰だった前藩主の取り巻きを一掃し、質素倹約や十三湖の千貫崎などの新田開発、産業育成、家臣の減俸、蘭学堂の設置などを行っています。

一方、日本列島で外国船が度々出現した事から蝦夷地警固や領内の海防警備が急務となり大砲鋳造や軍備の洋式化が達成されています。弘前城の防衛施設の一つである鏡ヶ池(南溜池)を水練稽古場に指定、水練やバッテーラ(洋式短艇=ボート)の訓練が行われ、安政6年(1859)7月には順承がその様子を視察しています。

天保13年(1842)には津軽家縁の熊野奥照神社(青森県弘前市)も拝殿を再建、安政元年(1854)に順承の仮養子で世子である津軽承祐(一門である津軽順朝の長男)が死去すると津軽家の菩提寺である長勝寺に葬られ墓碑が建立されています。晩年、黒石藩4代藩主に就任した津軽承叙に所有していた刀や甲冑などを授け、その内、黒石神社(青森県黒石市)に奉納された「金梨子地牡丹紋散蒔絵衛府太刀拵」が青森県指定県宝に指定されています。安政6年(1859)隠居、元治2年(1865)死去、享年66歳、戒名:政徳院殿脩道幻光大居士。

熊野奥照神社:写真
津軽順承と縁がある熊野奥照神社 津軽順承と縁がある熊野奥照神社 津軽順承と縁がある熊野奥照神社 津軽順承と縁がある熊野奥照神社
弘前城:写真
津軽順承と縁がある弘前城:天守閣 津軽順承と縁がある弘前城:丑寅櫓 津軽順承と縁がある弘前城:羊申櫓 津軽順承と縁がある弘前城:辰巳櫓
長勝寺:写真
津軽順承と縁がある長勝寺総門は赤色の屋根が印象的です。 津軽順承と縁がある長勝寺の象徴的な存在の山門(楼門) 津軽順承と縁がある長勝寺山門(楼門)斜めからの全景画像 津軽順承と縁がある長勝寺本堂は工事中です
黒石神社:写真
津軽順承と縁がある黒石神社神門とその前に置かれた石造狛犬 津軽順承と縁がある黒石神社拝殿とその前に置かれた木製燈篭 津軽順承と縁がある黒石神社拝殿右斜め前方の画像 津軽順承と縁がある黒石神社本殿正面外壁と社号額
十三湖:写真
津軽順承と縁がある十三湖 津軽順承と縁がある十三湖 津軽順承と縁がある十三湖 津軽順承と縁がある十三湖



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