【 概 要 】−津軽寧親は明和2年(1765)に黒石津軽家5代当主津軽著高と黒田直純の娘との子供として生まれました。安永7年(1778)著高の死去に伴い家督を継ぎ黒石領4千石の領主に就任しています。寛政3年(1791)、弘前藩8代藩主津軽信明が死去すると嗣子が居なかった事から寧親が末期養子として認められ弘前藩9代藩主に就任、11代将軍徳川家斉に謁見し従五位下・出羽守に叙任されています(黒石領の領主は寧親の嫡男典暁が就任しています)。
信明が行った藩政改革を継承し人寄役を設置するなど廃田復興と新田開発を実施し、寛政8年(1796)には藩校である稽古館、寛政9年(1797)には江戸上屋敷に弘道館を開校し藩士の教育、人材育成に尽力いています。寛政9年(1797)には江戸時代の紀行家として知られる菅江真澄をまねいて稽古館の薬事係に任命し医療向上にも繋がっています。
寛政5年(1793)、ロシア使節ラクスマンと幕府役人が松前城(北海道松前町)の城下で会談が行われた際、弘前藩、盛岡藩、松前藩が警備を担当、寛政9年(1797)には蝦夷地箱館の警備が命じられ文政4年(1821)に引き上げています。蝦夷地警備の功績により文化2年(1805)に7万石、文化8年(1812)に10万石に高直しされ、文化3年(1821)には侍従に任官しています。
文化10年(1813)、蝦夷地警備の財政負担や表石高が揚がった事での経費増加など藩の財政が逼迫すると、その負担の多くが農民にのしかかり、さらに不作が重なった事から弘前藩最大の一揆(民次郎一揆)が発生しています。一揆勢は2千人を超えたとされ弘前城の亀甲門を突破すると賀田門で「訴願状」と「連判状」を差し出し、取次を経て寧親の元に届けられ寧親の計らいにより4万俵の蔵米解放と3年間の免税を勝ち取りました。この一揆は多くの村の代表が関わっていましたが、藤田民次郎が自分一人で画策したと言い張り全ての罪を一人で被り処刑されています。
文政4年(1821)、戦国時代には盛岡藩南部家の家臣筋だった津軽家が石高で上回った事で、嫉妬から盛岡藩士相馬大作が参勤交代中の寧親を襲撃する事件が発生、所謂「相馬大作事件」で真相は不詳ですが、事前に察した寧親は参勤交代の経路を羽州街道から大間越街道に変更し、大作は空の輿を襲ったとも行列が現れなかったとも云われ結果的に未遂で済んでいます。
寧親は文化面も貢献し高照神社(青森県弘前市)に対しては文化7年(1810)に随神門、文化12年(1815)に廟門を造営、大星神社(青森県青森市)に対しては本殿を造営し文化6年(1809)には御神器諸物と寧親書の社号を奉納、享和2年(1802)には中野神社(青森県黒石市)の境内に京都から取り寄せた百余種の楓苗を植樹、鬼神社(青森県弘前市)に扁額を奉納しています。弘前城の修復も行い文化7年(1810)には現在の三層の天守閣が完成しています。領内巡視も行っており、羽州街道の宿場町である浪岡宿(青森県青森市浪岡町)では平野家に本陣を担うよう命じ、大間越街道の深浦宿の御仮屋を無為館と名付けています。文政8年(1825)隠居、天保4年(1833)死去、享年69歳、戒名:上仙院殿桃翁舜?大居士。
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