【 概 要 】−南部広信は宝永6年(1709)に八戸藩3代藩主南部通信と桂七郎大夫の妹との子供として生まれました。享保元年(1716)に通信の死去に伴い八戸南部家の家督を継ぎ八戸藩4代藩主を就任しています。検地法と沖の口礼金制度を制定するなど藩政改革に尽力する一方、毎年のように凶作が発生し財政が逼迫しています。
享保6年(1721)に法霊社(八戸藩総鎮守、藩庁である八戸城に鎮座、現在のおがみ神社)の神輿を長者山虚空蔵堂(現在の長者山新羅神社)への渡御を認めたのが八戸三社祭りの始まりとされます(現在は神明宮が参加)。寛保元年(1741)死去、享年33歳、金地院(東京都港区芝)に墓碑が建立されています。
南部広信は社寺の保護を行い、享保4年(1719)には斗賀神社(三戸郡南部町斗賀字上斗賀)に撞鐘を寄進、享保15年(1730)に津要法師の発願により広信の天然痘平癒と船舶の海上交通安全を祈願する為に灯明堂(三戸郡階上町大字赤保内)を造営しています。
享保年間(1716〜1736年)には應物寺(現在の潮山神社の寺下観音堂)に梵鐘を寄進、享保18年(1733)には徳蓮社良然廓信を招いて祖母である浄生院の菩提寺となる涼雲山浄生寺を創建、元文5年(1740)には台温泉(岩手県花巻市)から源泉を取り寄せ温泉治療を行いました。
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