【 概 要 】−南部直政は寛文元年(1661)、八戸藩初代藩主南部直房と霊松院(川口玄之丞の娘?)との子供として生まれました。寛文8年(1668)、直房の死去に伴い八戸南部家の家督を継ぎ、八戸藩2代藩主に就任しています。延宝2年(1674)に遠江守となり、貞享4年(1687)には外様大名ながら譜代扱いとなり、詰衆、側衆を経て元禄元年(1688)には5代将軍徳川綱吉の側用人にまで昇進しています。元々学問好きで聡明な人物だったらしく、一説には朝鮮から送られてきた屏風を並み居る学者が開けれなかったものの、直政は謎解きをすぐさま理解しアッという間に開いた事から綱吉から褒美としてビードロ製の鏡を賜ったと伝えられています。
八戸藩では直政の時代に領境の確定や人工調査が行われ藩政の基礎が固められました。一方、徳川綱吉の影響を強く受けていた事から「生類憐みの令」を八戸藩にも持ち込み生類奉行を4人任命し動物保護に努め、八戸城の御殿に持ち込める食材も限定しています。凶作になった際にも貴重なタンパク源となった狸や鹿の捕獲し食料にする事が禁じられた為、多くの領民が苦しんだとも云われています。
直政は江戸城西ノ丸下の屋敷を与えられ、江戸城に登城する際には大手門から出入りするなど待遇を得ましたが、僅か1年後の元禄2年(1689)に病気を理由に罷免となり外様大名に戻っています。元禄12年(1699)死去(南部藩による毒殺説有)、享年39歳、戒名:天祥院殿月澗宗真大居士。南部直政は江戸藩邸で死去した事から江戸菩提寺である金地院(東京都港区)に葬られましたが、八戸の菩提寺である南宗寺にも墓碑が建立されています。南部通信が家督を継いでいます。
南部直政は社寺の保護も行い、寛文9年(1669)に篤く崇敬した八戸神明宮(青森県八戸市)を長者山の北東隅へ遷座し社殿を造営、延宝6年(1678)には八戸藩内の五穀豊穰、万民安穏、無病息災を祈願する為に南部家の祖神である新羅三郎義光の御霊を南部直房が創建した虚空蔵堂(現在の長者山新羅神社)に勧請、元禄2年(1689)には八戸城の城内に新羅三郎義光の御霊を勧請し新羅宮(現在の三八城神社)を創建(その際、直政によって寄進された本小札勝色威二枚胴具足と梨子地螺鈿金装太刀が八戸市指定文化財に指定されています)、元禄5年(1692)には自ら開基となり峯山光雪師を招いて石田山光龍寺を創建しています。
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