北畠具永:概要

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概要・歴史・観光・見所
北畠具永(浪岡城)

【 概 要 】−北畠具永の誕生年は判りませんが浪岡顕具の子供として生まれ浪岡北畠氏7代目当主とされる人物です(長享元年:1487年という説がります)。浪岡北畠氏は南北朝時代に南朝の有力武将だった北畠顕家の後裔と目され具永は積極的に家名復興を目指し天文5年(1536)には従五位下侍従の叙爵を受け、天文9年(1540)に従五位上、天文17年(1548)に正五位下、天文21年(1552)に従四位下左中将に昇進しています。当時の東北地方の大名としては異例な格式で、具永が京都の公家などと太い繋がりがあり、北畠顕家の後裔という事もある程度信用されていた事が窺えます。

最盛期の北畠具永の領地は津軽六郡の内の田舎郡二千八百町歩、奥法郡二千余町歩、馬の郡三百町歩、穂瑠麻郡三百町歩及び外ヶ浜を領し概ね3万石程度だったとされ、津軽地方では最大勢力で「浪岡御所」と呼ばれていたようです。具永が当主時代に浪岡城が大きく拡張され、川原浪岡氏の名跡を庶子である具信に継がせ勢力拡大に努めています。

浪岡城の城下町についても積極的に整備したと見られ、京都の都を意識し、浪岡城を四方から取り囲みように祇園、八幡、加茂、春日を勧請したようで、祇園社の後裔神社とされる廣峰神社は具永が社殿を造営した、加茂社の後裔神社と思われる加茂神社は天文22年(1552)に具永が民部卿大納言に昇爵の記念に拝殿を寄進したとの由緒を持っています(八幡社の後継は浪岡八幡宮、春日社は廃社になったとされます)。又、現在の弘前市に境内を構える京徳寺は享禄2年(1529)に具永が菩提寺として長勝寺2世秋澗梵菊を招いて創建したとの由緒を伝えています。

北畠具永の領内経営の詳細は判りませんが大永年間(1521〜1527年)に金木八幡宮(青森県五所川原市金木町)を創建し浪岡北畠氏の祈願所とした伝承が残り、青森市油川に鎮座している八幡宮神社には永禄2年(1559)に波岡御所北畠具永が社殿の再建を行った旨が記されている棟札が残されています。

具永の死没年は京徳寺過去帳には天文24年(1555)と記されていますが、上記の八幡宮神社の軒札には永禄2年(1559)という年号もあり永禄5年(1562)に死去したという説もあります。

浪岡城:写真
北畠具永と縁がある浪岡城 北畠具永と縁がある浪岡城 北畠具永と縁がある浪岡城 北畠具永と縁がある浪岡城
浪岡八幡宮:写真
北畠具永と縁がある浪岡八幡宮 北畠具永と縁がある浪岡八幡宮 北畠具永と縁がある浪岡八幡宮 北畠具永と縁がある浪岡八幡宮
長勝寺:写真
北畠具永と縁がある長勝寺総門は赤色の屋根が印象的です。 北畠具永と縁がある長勝寺の象徴的な存在の山門(楼門) 北畠具永と縁がある長勝寺山門(楼門)斜めからの全景画像 北畠具永と縁がある長勝寺本堂は工事中です
金木八幡宮:写真
北畠具永と縁がある金木八幡神社 北畠具永と縁がある金木八幡神社 北畠具永と縁がある金木八幡神社 北畠具永と縁がある金木八幡神社



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