【 概 要 】−南部信真は安永9年(1780)、八戸藩6代藩主南部信依と織瀬姫(鈴木幸右衛門の娘)との子供として生まれました。寛政7年(1795)に実兄で八戸藩7代藩主南部信房の養子となり、寛政8年(1796)に信房の隠居に伴い八戸南部家の家督を継ぎ、8代藩主に就任、従五位下・左衛門尉に叙任しています。先代の時代に発生した天明の大飢饉以来、藩の財政が逼迫しており、文化元年(1804)に信真は家臣である野村軍記を大目付に登用し藩政改革を行いました。野村軍記は質素倹約、新田開発、特産物の奨励などを行う一方で特産物を強権的に藩の独占にしたり、年貢の取り立てを強引に行った事から天保5年(1834)には久慈・軽米通 稗三合一揆が発生し軍記は閉門となっています。
文政7年(1824)にはおがみ神社(青森県八戸市)の社殿を造営、文政9年(1826)から文政10年(1828)にかけて長者山新羅神社の社殿(青森県:県宝)を造営、文政11年(1828)に八戸城の御殿が解体され、文政12年(1829)に新たな御殿が造営、さらに二ノ丸には藩校である文武講習所が開校しています。天保9年(1838)に城主格に昇格した事を受け、八戸城は正式に城郭として認められています。弘化3年(1846)死去、享年67歳。
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