浪岡城(青森市)概要: 浪岡城は青森県青森市浪岡大字浪岡五所に位置する城郭です。浪岡城の築城年は不詳ですが古くは平泉(岩手県平泉町)に本拠をもった藤原秀衡の六男頼衡の後裔が浪岡氏を名乗りこの地に土着し館を築いたのが始まりとされます。
室町時代の長禄年間(1457〜1460年)、北畠親房の後裔である北畠顕義がこの地を領するようになり本格的に築城され、以後歴代北畠氏の居城となり津軽地方一帯に大きな影響力を持ちました。
特に浪岡北畠氏7代目当主とされる北畠具永の時代が最盛期だったとされ浪岡城も大きく拡張されています(具永は田舎郡二千八百町歩、奥法郡二千余町歩、馬の郡三百町歩、穂瑠麻郡三百町歩及び外ヶ浜を領したとも云われています)。
戦国時代までは津軽地方を北畠氏、大光寺氏、大浦氏等で三分され大きな影響力がありましたが永禄5年(1562)、北畠氏の内乱とも言える「川原御所の乱(当時の浪岡城の城主北畠具運が弟である川原御所の館主北畠具信に討たれた事件)」が勃発すると急速に衰退し天正6年(1578)には大浦為信(弘前藩初代藩主・後の津軽氏)によって急襲され浪岡城は落城し最後の城主となった北畠顕村は西根の寺で自刃し、大名家としての北畠家は没落します。
その後、大浦氏の持ち城として機能し天正13年(1585)には油川城攻略の拠点の1つとなっています。
ただし、南部家は大浦氏(津軽氏)の津軽支配を認めていなかった為、記録上は浪岡城に南部家の家臣が郡代として配され天正18年(1590)に大浦氏の急襲により落城した事になっています(この記録を豊臣方に信じさせる事で、大浦氏の行為は惣無事令違反で、津軽地方を南部領にする画策をしたと考えられます。ただし、大浦氏の主張の方が採用され大浦氏の所領が安堵されています)。
浪岡城の城郭: 浪岡城(青森市)は中世の平城で、東西1200m、南北600mの規模で新館(南北約90m)、東館(東西約120m、南北約70m)、猿楽館(東西約80m、南北約80m)、北館(東西約200m、南北約100m)、内館(東西約120m、南北約85m)、無名の館、西館(東西約80〜100m、南北約150m)、検校館(東西約80m、南北約180m)の8つ郭があり幅20m、深さ5m程の2重堀(方向によって3重堀)で囲まれていました。
北畠氏は南朝の有力な武将で浪岡に下向した後も中央との結び付けが強く浪岡城の周りには祇園神社(現在の北中野広峰神社)、八幡神社(現在の浪岡八幡宮)、加茂神社(現在の五本松加茂神社)、春日神社(廃社)など中央縁の社寺を勧請し京都を模した町づくりを建設したと言われています。
浪岡城は現在でも堀や土塁、郭の形状、出土物4万点(中国製茶壷や陶磁器1万6千点)などの遺構が良好に残され、中世の平城の遺構として大変貴重な事から約13万6千uが昭和15年(1940)に国指定史跡に指定されています。
|