碇ヶ関御関所(平川市)概要: 碇ヶ関御関所は天正14年(1586)津軽為信によって出羽国と津軽(陸奥国)の国境である矢立峠を開削した際、設置されたもので、当初は津軽街道から南部勢が侵攻を繰り返していた為、その侵攻を食い止める為にも軍事的な拠点となりました。寛文2年(1662)に羽州街道が弘前藩主津軽家の参勤交代で利用されるようになると4代藩主津軽信正により町割を含めて再整備され事実上の表玄関として領内3箇所(大間越、野内、碇ヶ関)に設けられた関所の中でも最も重要視されました。
この地は秋田藩、盛岡藩との藩境に近く、特に盛岡藩とは対立関係にあった為、軍事的拠点としても整備され、碇ヶ関御関所前には湯ノ沢番所、折橋番所が設けられ、宿場内には枡形や空掘、関所には高麗門を設け内部には多量の武器が持ち込まれました。
ここを突破させると本城である弘前城も危うくなる危機感から備品として御幕(1双)、番槍(10本)、番弓(10張)、靱(10穂)、?(10指)、征弓(300筋)、鉄砲(20挺)、銃卵(20)、口薬入(20)、竹火縄(20曲)などが備えられていました。
江戸時代中期に訪れた古川古松軒は東遊雑記に「武器を飾り厳重なること中々箱根の御番所などの及ぶことにあらず」と記していて碇ヶ関御関所の堅固さが窺えます。
又、碇ヶ関御関所は藩主が参勤交代の際宿泊する御仮屋でもありここで旅装に着替えました。御仮屋とは藩主の宿泊所の事で他藩では陣屋や本陣に当たり、周囲には土塁や木柵、門などが設けられ弘前藩では重要な要地に御仮屋を設けた為、領内では所謂本陣は設けられませんでした。
明治4年(1871)に碇ヶ関御関所は廃止され現在は国道7号線が通過するなど遺構は殆どありませんが、場所を変え高麗門と面番所が復元されています。
高麗門を簡単に説明した動画
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