福島城(五所川原市・十三湖)概要: 福島城は青森県五所川原市相内に位置している城郭です。福島城の築城年や当初の築城主は不詳ですが10世紀から11世紀にかけて築城された可能性があり、平城としては東北地方最大級の約62.5万uという巨大な規模を誇っています。
門跡や柵列など奈良時代から平安時代に東北地方に築城された古代城柵に類似点も多く、当時から朝廷の権力が及んでいたとも、東北に巨大権力があったとも言われ不明の多い城柵跡です。
平安時代後期になると奥州平泉(現在の岩手県平泉町)の藤原秀衡の弟藤原秀栄(後の十三氏)が十三湊を支配したと言われ福島城との関係は分かりませんが、十三湊が軍事的、政治的な重要な位置を占めていたと推定されています。
その後、安東氏が台頭するようになり寛喜元年(1229)、当時の当主安東貞季が十三氏を滅ぼし津軽地方に大きな影響力を持つようになります。安東氏と福島城との関係も伝承にのみ伝わるだけですが200m四方の堀と土塁に囲われた内郭部分は中世に築城されたことから安東氏の居城と考られています(偽書とされる「十三湊新城記」によると正和年間:1312〜1317年に安藤法季が福島城を築いたとされます)。
安東氏は特に海運に力を入れた豪族とされ北海道から本州の日本海沿岸まで貿易を広げ奥州十三湊日之本将軍や安東水軍(所謂武装した水軍では無く商船団だったと思われます)などと称され福島城の城下町となった十三湊には一大都市が築かれ活気に呈してたと言われています(福島城と十三湊とは関係が薄いという説もあります)。
伝承では暦応3年(1340)に突然大津波が起こり十三湊が一瞬のうちに海底に沈んだとされます(文献的は偽書と認定された東日流外三郡誌などで一級資料では無い。科学的調査では十三湖に津波が押し寄せた形跡は証明されていない)。
その後復興したとされますが南部家の侵攻により安東氏は次第に衰退し嘉吉3年(1443)に南部政盛の抗争に破れると一族は北海道(蝦夷地)に逃れ旧地を取り戻すことが出来ませんでした。福島城はその後廃城になったとみられ、近世以降も利用する人はいませんでした。
|