根城(日本100名城)概要: 根城築城は建武元年(1334)南部師行によって築かれたのが始めと伝えられています。南部師行は元々甲斐国内に領地を所有していましたが、鎌倉幕府滅亡の功があり建武の新政でも重責を担いました。その後、陸奥守北畠顕家に従い義良親王(後醍醐天皇の皇子)と共に多賀城(宮城県多賀城市)に入ると糠部郡の郡代を命じられました。
師行は根城を本拠し、鎌倉幕府執権北条家寄りの名越時如や安達高景などを討ち滅ぼし津軽地方を大方平定しました。足利尊氏が後醍醐天皇を離反し南北朝時代に入ると師行は東北地方の南朝方の中心的存在となり、最盛期には現在の青森県一帯と秋田県に鹿角郡、比内郡、仙北郡、岩手県中央から北部にかけてが勢力圏内だったとされ根城は南部氏の東北の拠点として大きな意味合いを持ちました。
南朝が衰退しやがて南北が統一されると南部氏の勢力も限定的となり当時の当主南部政光は明徳4年(1393)本拠だった甲府から根城に居城を移し周辺地域の支配を固め根城南部家の基となりました。
戦国時代になると三戸南部家が台頭し、天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置きでは唯一三戸南部家だけが領地を認められた為、形式的に根城南部家は家臣として組み込まれる事になりました。
その後も形式的には三戸南部家の家臣でありながら半独立領主として当地を支配していましたが寛永4年(1627)根城南部家22代直義が遠野城(岩手県遠野市)に移封となり完全に家臣団に組み込まれました。
八戸領は南部藩直轄となり、根城南部家の支配を完全の絶つ為、根城を廃城、盛岡藩初代藩主南部信直は自ら縄張りを行い八戸城を築き八戸地方の中心とされました。
根城は本丸を中心に中館、東善寺、岡前舘、沢里館の5つ郭から構成される連郭式の平山城で現在でも郭の形状や空掘、土塁などの遺構が明確に残り、本丸では主殿、中馬屋、工房、鍛冶工房、板倉、納屋、東門など数棟の建物が復元され周辺も"史跡根城の広場"として整備されています。根城(指定地総面積212.795u)は昭和16年(1941)に国指定史跡に指定され平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。
又、根城の広場の正面には八戸城の東門が移築され平成5年(1993)に八戸市指定文化財に指定されています。伝承によると元々根城の城門として建てられたもので、八戸城が築城された際、八戸城の城門として再利用され、さらに安政6年(1857)に倒壊すると家臣である木幡家の表門として再築されたと伝えられています。
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