弁慶石(八戸城)概要: 旧八戸城内に鎮座する三八城神社(明治11年:1878年創建、祭神:南部直房、新羅三郎義光、南部光行、天照大御神)境内にある弁慶石は、武蔵坊弁慶が力自慢をした際、大石を蹴り上げた時に出来たものと伝えられ、岩には大きな歪な足型と指の跡と思われる3個の穴が開いています。当初は境内南側のコブシの根元あたりに安置されていたそうですがその後現在地に移されています。源義経は平泉(岩手県平泉町)から脱出し北海道へ逃れてたいう所謂"義経北行伝説"の逃避行程に八戸市内が含まれていたこともあり義経、弁慶にまつわる伝説や史跡が市内に16ヵ所あり弁慶石もその1つとされます。義経は久慈の侍浜から海上で北上し種差海岸に上陸、熊野神社の境内で休息し、その後、源治囲内の有力者に囲われ、その娘と恋仲となり女児を設けたそうです。高舘に屋敷を構え、小田八幡宮に毘沙門天を奉納したり、馬渕川の東の野原を京ヶ原、その北の州崎を京ヶ崎と名付けたり、藤ヶ森稲荷神社(享保17年:1732年に八戸藩の御側医格である関諄甫が編纂した「類家稲荷大明神縁起」には八戸での義経の行動が記載されています。)を勧請したりして数年後に蝦夷地を目指して八戸の地を去ったと伝えられています。一般的には義経は文治5年(1189)に頼朝の圧力に屈した藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃したとされますが、それとは別に義経は蝦夷地から大陸に渡りジンギスハーン(モンゴル帝国の皇帝)になったとの伝説が古くから伝えられています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-社団法人八戸観光協会
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