野辺地代官所(城)概要: 野辺地城の築城年は不詳ですが室町時代に入り七戸南部氏の領内となり一族である野辺地氏が築城あるいは大改修がなされたと考えられています。康正2年(1456)には下北半島を統一した武田信純により攻略され落城(蛎崎の乱)、その後も激戦が続き八戸政経により奪還されています(ただし、蛎崎の乱については軍記物とされる「東北太平記」での記述である為、検討が必要とされます)。
戦国時代に入ると野辺地城は七戸氏(七戸城の城主)の支配下に置かれましたが天正19年(1591)の九戸政実の乱で七戸氏は九戸氏に加担した為、大名家としては没落し、野辺地城も三戸南部家(三戸城の城主:南部家惣領家)によって接収されます。
その後、三戸南部家の家臣と思われる七戸持文が天正19年(1591)、石井伊賀が慶長3年(1598)に城主として派遣され、その後は小軽米氏、日戸氏が城代を歴任しています。
慶長20年(1615)に一国一城令が発令されると形式上野辺地城は廃城となりますが、野辺地は北前船の寄港地で、尾去沢鉱山の産出物を搬出する経済的拠点でさらに、敵視していた弘前藩(藩庁:弘前城)に隣接する軍事的拠点、田名部(下北半島)に通じる交通の要衝でもあった為、引き続き盛岡藩でも重要視され要害屋敷として残されました。
享保20年(1735)になると盛岡藩で新たに通制が敷かれ、野辺地にも代官所が設置され盛岡から代官2名が派遣され、当地方の行政の中心であり続けました(馬門番所、湊番所を配下に置いています)。
明治元年(1866)には官軍側の弘前藩と奥羽越列藩同盟側の八戸藩(藩庁:八戸城)、盛岡藩(藩庁:盛岡城)との間に野辺地戦争が起こると野辺地代官所は激戦地となり双方の銃撃戦の後弘前藩を敗走させています。
野辺地城は城下町から見ると平城ですが野辺地川から見ると一段高い高所に設けられ、野辺地川を北方の外堀に見立て、残りの3方を深い空堀で囲み、城下町に面する一方に虎口を設けていました。現在は空掘の一部以外は目立った遺構が無く敷地の一角に「野辺地代官所跡」の標柱が建てられています。
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