野辺地戦争 戦死者墓所

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概要・歴史・観光・見所
野辺地戦争 戦死者墓所概要: 明治元年(1868)9月23日、戊辰戦争の際、当時官軍側に付いた戊辰戦争(野辺地戦争)戦死者墓所弘前藩(藩庁:弘前城)が奥羽越列藩同盟側の八戸藩(藩庁:八戸城)、盛岡藩(藩庁:盛岡城)領内に3隊(180人)に分かれて侵入しました。弘前藩は官軍と奥羽越列藩同盟両陣営に通じており曖昧な態度に終始していましたが、同盟側の不利が明確になると官軍側として明確する必要があり盛岡藩領の侵攻に至ったとされます。弘前藩の1隊は奥州街道沿いに進み大橋を渡るまで進軍しましたが八戸、盛岡両軍の反撃にあい撤退を余儀なくされました。

山道隊は野辺地代官所を急襲、両軍が銃撃戦となり明け方まで続きましたが弘前藩のあと1隊が山中で迷い戦いに参加出来なかった事もあり自らの領内に引き上げていきました。盛岡藩は20日に新政府軍に降伏し22日には降伏が受理されていた事もあり本来は弘前藩に非のある軍事行動でしたが、結果的には私闘として処理され表立っての処分は行われませんでした。

弘前藩兵の死傷者は40名以上に登りこの地にはその内27名が4基の墓に分けられ埋葬されました(死者は35人とも)。墓域は間口33m、奥行25m、面積825uで明治2年(1669)には国費により墓碑が建立され明治41年(1908)に再建されています。野辺地戦争戦死者墓所は青森県の明治維新前後の歴史を語る貴重な史跡として昭和51年(1976)に青森県指定史跡に指定されています。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-野辺地町教育委員会

戊辰戦争(野辺地戦争)戦死者墓所:写真

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