野辺地町: 藩境塚

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概要・歴史・観光・見所
藩境塚(野辺地町)概要: 案内板によると「 この塚は江戸時代、津軽藩と南部藩の境界に築かれたものである。津軽領と南部領を結ぶ主要街道上にあり、二本又川(境の川)をはさんでそれぞれ二基ずつ四基とした。築造年代は明らかでない。 平内町 野辺地町」とあります。津軽家の祖とされる津軽為信は南部家の一族である久慈氏出身(津軽家では否定している)だった事から本来、南部家の一家臣という位置付けでしたが為信は、南部家に対し謀反を起こし津軽3郡を掌握し独立した大名として認められました。そのような経緯から後の盛岡藩(藩庁:盛岡城)南部家と弘前藩(藩庁:弘前城)津軽家は犬猿の仲とされ、特に藩境ではその帰属を巡り度々争いが起こっています。当地では文禄4年(1595)に一応、二本股川と烏帽子岳山頂を結ぶ線が境界線と決められていましたが、盛岡藩側にとっては納得のいくものでは無く江戸時代初期の図面では藩境塚が記されていないなど境界があいまいに描かれています(元禄14年:1701年の絵図では藩境塚は描かれています)。藩境塚は4つの塚が築かれた事から「四ツ森」や「四ツ塚」の別称があり盛岡藩側の馬門村、弘前藩側の狩場沢村(明暦2年:1656年以降は黒石領)にはそれぞれ番所を設け人物改めや荷物改めなどが行われ厳重に管理されました。藩境塚は高さ3.5m、長径約10mと大型ですが奥州街道がむつ湾沿いにあった為、明治時代以降の主要道は高台に敷かれ偶然にも四基とも原形を留めています。このように藩を挟んで四基の藩境塚が現存している例は全国的に見ても大変珍しく昭和44年(1969)に青森県指定史跡に指定されています。

藩境塚:写真


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