七戸城・歴史: 七戸城は青森県上北郡七戸町字城ノ後に位置する城郭です。七戸城の築城年は不詳ですが八戸根城の城主南部師行の弟である南部政長が建武2年(1335)に七戸領を与えられている事から南北朝時代に築かれたと考えられます(その他に鎌倉時代初期に七戸太郎三郎朝清築城説、鎌倉時代末期に工藤右近将監築城説があります)。
七戸城は南朝側の軍事的拠点として機能し、南北統一後も津軽地方を領していた安東氏への戦略拠点として重要視され南部政光が七戸城に配され七戸氏を名乗ると代々の居城となりました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原北条家を滅ぼし、奥州の伊達政宗を従わせた事で一応の天下統一を成し、小田原参陣を果たし豊臣家に働きかけた事で三戸城を居城とした三戸南部家が南部家の総領家となりました。
天正19年(1591)この事により軍事的には三戸南部家を凌駕する九戸南部家が不服とし兵を挙げ、七戸氏も呼応し九戸の乱に加担した為、七戸城は豊臣家の奥州仕置き軍である上杉景勝軍の攻撃を受けて落城し、当時の城主七戸家国が斬首され七戸南部家は滅亡します。
その後、浅水城の城主南直勝の子供である直時が七戸氏の名跡を継がせ慶長2年(1597)に2千石で七戸城に配されました。正保4年(1647)に重信(盛岡藩初代藩主南部利直の5男)が名跡を継ぎますが寛文4年(1664)に盛岡藩3代藩主に就任した為、七戸城は一旦廃城となり、改めて盛岡藩の代官所が設けられ、七戸城の本丸と二之丸を利用しました。
文政2年(1819)盛岡藩から分地され新たに七戸藩(盛岡新田藩)1万1千石が立藩し南部信鄰が初代藩主となりましたが定府大名だった為、城は築かれず藩庁もありませんでした。
安政5年(1858)信誉の代に城主格となり、明治2年(1869)に南部信方(戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加した為、信誉は蟄居・隠居)が正式に七戸藩主となり藩庁も置かれました。七戸藩が廃藩になると七戸城も廃城、多くの建物は取り壊し又は民間に払い下げとなり、現在本丸跡には領内の総鎮守として勧請された七戸神明宮が遷座し城域は柏葉公園として整備されています。
七戸城・縄張り: 七戸城は作田川と和田川を外堀に見立てた天然の要害とする舌状台地を巧みに利用した平山城形式の城郭です。縄張りは本丸、二の丸、北館、下館、宝泉館、西館、角館、帯郭、南外郭、西外郭、北西外郭からなる並列連郭式でそれぞれの郭には空掘、水掘、土塁などで独立し帯郭、虎口、武者隠し等も巧みに配置されています。
又、城下の北東には天王神社を配して鬼門鎮守とし、南西には城主の菩提寺である瑞龍寺を配して裏鬼門鎮護としています。
代官所時代には旧本丸に御殿、御台所、御武具櫓、旧二之丸には御役屋、稲荷宮、煙硝櫓、御しめ櫓、大豆蔵、土蔵、番屋、表門、北御門、西御門、高田家屋敷、福士家屋敷などが設けられていました。七戸城は七戸南部氏の中世城跡で保存状態も非常に良く大変貴重な事から昭和16年(1941)に国指定史跡に指定されています。
又、七戸城唯一の建築物の遺構として青岩寺に城門が移築され平成2年(1990)に七戸町指定有形文化財に指定されています(庫裏も七戸城の遺構でしたが昭和6年に改築)。
七戸城・「姫塚」の伝説: 七戸城二の丸西側に建立されている姫塚は案内板によると「昔、七戸城の殿様には美しいお姫様がおり、身分の低い武士と恋仲となり、それがある日、殿様に知られ、相手の武士は殺されてしまったそうです。その殺された武士の後を追い、お姫様も自害したと伝えられています。ここにある2つの塚は、お姫様と武士がこの世では一緒になれなかったが、あの世で2人が一緒にいられるようにという思いで、2人が埋葬されたものと言われております。 ここにある石碑は昭和47年に3百年忌追善供養のため建てられたものです。この姫塚の呼び方には、さらに諸説があり、「姫ヶ塚」「鍋塚」などとも呼ばれております。 七戸町観光協会 」とあります。
【 参考:サイト 】
・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(史跡七戸城跡ガイド地図)
・ 現地案内板(史跡七戸城跡全体案内マップ)
・ 現地案内板(「姫塚」の伝説)-七戸町観光協会
・ 現地案内板(七戸城東門の説明)-史跡七戸城跡総合整備活用推進実行委員会
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