七戸町(歴史)概要: 七戸町は平安時代後期には開かれていたとされ、鎌倉時代には工藤氏が北条氏の代官としてその任にあてっています。鎌倉幕府が滅ぶと根城南部氏の一族である南部政長が領主となり七戸城を大改修し、根城南部氏と共に南朝の重要拠点となりました。政長の後裔は七戸氏を名乗り周辺を支配し南部氏の中でも大きな影響力を持ちましたが天正19年(1591)当時の領主七戸家国が九戸の乱に同調し宗家である三戸南部家に謀反を企てことで滅亡しています。
江戸時代に入ると七戸町は盛岡藩(藩庁:盛岡城)に属し、この地が周辺の軍事的、行政的、経済的の中心地だったことから南部氏一族の南部直時を配し、七戸城跡には代官所を設けるなど支配を固めます。文政2年(1819)、南部信鄰が盛岡本藩から1万1千石を分知され新田藩を立藩、当初は定府無城主格でしたが安政5年(1858)北方警備の功により信誉が城主格を得ています。まもなく七戸城の築城を開始しますが財政難や治世が流動的だった事もあり工事が進まず幕末を迎えます。
江戸時代末期に発生した戊辰戦争の際、新田藩は盛岡本藩と共に奥羽越列藩同盟側に付いた為、幕府側として処理され当時の藩主信民は蟄居となり明治2年(1869)弟である信方が改めて七戸藩を立藩し居城や城下町の整備が行われています。又、七戸町は奥州街道の宿場町(七戸宿)として整備され多くの旅人や物資が集められ集積場として周辺経済の中心地となりました。
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