五戸町(歴史)概要: 五戸町は古くから交通の要衝として重要視された地域で、鎌倉時代南部領となると五戸館が築かれ当時の南部氏の居城である聖寿寺館の前衛拠点となっていたようです。文明年間(1469〜1486年)には南部家20代信時の三男重義が野沢城を築き聖寿寺館の北方の守りと糠部郡統一の戦略的拠点となりました。
永正年間(1504〜1521年)には南部氏22代政康の三男長義は浅水城を築き「南殿」と呼ばれるようになり五戸、浅水を知行、禄高3千石を有します。その後、南氏を称するようになり南部氏の有力家臣として活躍、九戸の乱で櫛引氏が浅水城を襲撃しましたがこれを撃退しています。
江戸時代に入ると盛岡藩に属し、南氏が家督が恵まれず断絶すると寛永12年(1635)に五戸代官所を設け三戸郡13ヵ村、北郡15ヵ村、合計28ヵ村14170石(幕末)を統轄させます。代官には戦国時代にこの地に土着した木村家が歴任し明治維新まで五戸町周辺の治世にあたっています。
又、五戸町は奥州街道の宿場町として整備され多くの旅人や物資が集められ集積場として周辺経済の中心地となりました。
戊辰戦争の際、盛岡藩は奥羽越列藩同盟に参加した為、新政府軍と対立し敗戦後大きく石高が減らされ、代わって同じく敗戦し改易となった旧会津藩主松平家の家名存続が認められ明治2年(1869)斗南藩が立藩し当初は五戸代官所に藩庁が置かれました。
その後、田名部(現在のむつ市中心部)の円通寺(恐山菩提寺本坊)に藩庁が移され、明治4年(1871)に廃藩置県が執行されると斗南藩は廃藩となっています。
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