浅水宿(五戸町)概要: 奥州街道の宿場町で継所が設置されていました。所謂正式な宿場町ではなかった為、本陣や脇本陣が設けられず参勤交代でも大名家からは宿泊では利用されませんでした。それでも幕末には商人宿2軒、往来宿1軒があり一定の繁栄がありましたが、明治時代に入り宿場制度が廃止され近代的な交通網が整備されると衰微しました。
中世は浅水城の城下町として整備され、街道沿いには城主だった南長義が開基となった寶福寺があります。
南長義は南部宗家22代南部政康の3男で宗家の本城である三戸城から南方に居を構えた事から南殿とも呼ばれ何時しか南氏を称するようになり歴代南氏は南部家の重臣として3千石を領し大きな影響力を持ちました。
しかし、寛永8年(1631)に南利康(初代盛岡藩主南部利直の子供でしたが先代の南直義の嫡男晴政が幼少だった為に南氏を継ぎ5千石を領しました。)が病死した為に浅水城も廃城となり、浅水の城下町としての発展も露と消えてしまいました。
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