津軽半島(歴史)概要: 津軽半島は本州の北端の半島のひとつで日本海、津軽海峡、陸奥湾に囲まれています。津軽半島の東側の平館から竜飛岬、西岸の権現崎、青森県の日本海側である深浦、岩崎海岸、十二湖、岩木山までが津軽国定公園に指定されています。
津軽半島の北端である竜飛岬から袰月海岸は海岸段丘が見られ竜飛岬から権現崎は岩石海岸が続き、竜飛岬から東南東に向かっては津軽山地と呼ばれる山脈が続きます。
権現崎からは南北約30キロ、東西3〜5キロ程の砂丘で構成されている七里長浜が続きその内側には十三湖いう内潟があります。
津軽半島は蝦夷地(現在の北海道)の玄関口でもあった為、古くは源義経の北方(北行)伝説の舞台となり、それによると奥州平泉で館を焼き払い自刃したと見せかけて実は館を抜け出し、海岸沿いを北上して現在の八戸城周辺に一時滞在し、十三湖の湖畔を経由して奥州藤原氏一族が支配した十三湊を経て、津軽半島の先端近くにある三厩から蝦夷地に渡ったと伝えられています。
その為、義経の縁のある厩岩(この岩の上に持仏を安置し3日3晩祈願すると波が治まった)や義経寺(義経の持仏が本尊)、甲岩(義経が蝦夷地に渡る安全祈願の為に甲を安置した)、鎧島(義経が風神に鎧を捧げ風を鎮めてもらった)、帯島(龍馬で蝦夷地に渡る途中に帯を締めなおした)などの史跡が点在しています。
江戸時代後期になると蝦夷地の開発が行われるようになり吉田松陰(長州藩士、明治維新の精神的指導者・理論者)は長州藩の許可が下りる前に、宮部鼎蔵との約束を守る為に長州藩を脱藩し東北遊学を行い津軽半島周辺の海防施設の視察をしています。
現在でも小泊から算用師峠、三厩までの旧道が当時の景観を良く留めている事から「みちのく松陰道」と名付けられ津軽半島の突端にある龍飛崎展望台には「吉田松陰碑」が建立されています。
その他にも瀬三樹三郎(江戸時代末期の儒学者)は東北地方から蝦夷地へと遊歴した際、津軽半島を訪れ、松浦武四郎(江戸時代末期から明治にかけての探検家、浮世絵師)は蝦夷地(現在の北海道)を探査する際、津軽半島を経由、荒川秀山(都城明道館の講師)は、蝦夷松前に遊学した際、津軽半島を訪れ、景観が素晴しい事から小泊十二景(七ツ石・権現崎・経島・羅漢石・姥石・辨天崎・稲荷堂・青巖・七瀧・傾石・燕崎・龍飛崎)を選定し七言絶句の漢詩を詠んでいます。
青森県出身の太宰治の小説「津軽」では昭和19年(1944)に津軽半島を旅行した事を題材に執筆されたもので、当時の津軽半島の様子も随所に描かれています。
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