義経寺(津軽半島・竜飛岬)概要: 義経寺は青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩家ノ上に境内を構えている浄土宗の寺院です。義経寺に伝わる伝説によると文治5年(1189)、源義経は藤原泰衡(奥州藤原氏第4代当主、藤原秀衡の嫡男)に急襲される以前に既に平泉(現在の岩手県平泉町)を脱出し蝦夷へ落ち延びたとされます。藤原秀衡(奥州藤原氏第3代当主)は子息の泰衡や国衡に対して義経を大将に見立て、鎌倉(源頼朝)と対峙せよ、との遺言を残すと同時に、義経には子供達が何か不穏の動きがあれば、蝦夷地に逃げよと助言していたとされます。
義経は太平洋の沿岸沿いを北上し、種里海岸(青森県八戸市)に上陸すると、現在の八戸市周辺に一時滞在した後に津軽半島を横断する形で三厩まで辿り着きました。その経路の途中には小田八幡宮(八戸市小田)やおがみ神社(八戸市内丸)、新羅神社(八戸市1丁目)、貴船神社(青森市野内)、善知鳥神社(青森市安方)など義経伝説を伝える遺跡が点在しています。
義経は蝦夷に渡る為に津軽半島の先端である竜飛岬から海を渡ろうとしましたが強風により足止めとなり困り果て、巨岩の上に守り本尊である観音像を安置させ三日三晩念じました。すると、白髪交じりの仙人が現れ3頭の龍馬を与えられ無事に蝦夷まで辿りつくことが出来たと伝えられています。
寛文7年(1667)この地を訪れた円空和尚が厩岩で神々しい光を放つ観音像を見つけると、その晩、円空の霊夢に観音像の化身が立ち、上記の由来を切々と語った事から、この観音像こそが義経の守り本尊と悟り自らも観音像を彫り込み、胎内に義経の守り本尊を納め草庵を結びました。
義経寺の創建伝説にはもう一説あり、本尊の観音像は義経の兜の前立てに納めた持仏で、江戸時代初期には越前足立(現在の福井県福井市)住民の甚兵衛が所有していましたが、甚兵衛の霊夢に観音像の化身が立ち津軽三厩に我を納めよとの御告げがあった事から、船頭である久末に頼み三厩の船問屋伊藤家に納め、その後、円空に渡ったと伝えられています。
義経寺・歴史: 三厩湊が蝦夷地である松前との渡航口で北前舟の寄港地になると、義経が観音像の御加護を受けで蝦夷地に渡った故事(伝承)から、海に関わる海運業者(廻船問屋)や漁業関係者から篤く信仰されるようになります。
特に義経寺では航海安全、豊漁祈願が行われ、境内には数多くの船絵馬や大漁旗、舟の重りで使用した石、石鳥居などが奉納され、文政2年(1819)には松前奉行村垣定行が石燈籠を寄進しています。
天明8年(1788)には江戸時代後期の紀行家で民俗学の祖とされる菅江真澄が当寺を訪れ由緒や境内の様子を記録しています。
当初の義経寺は厩岩近くに境内を構えていましたが安政2年(1855)に現在地に移り、神仏習合していた為、明治時代初頭に発令された神仏分離令により一時廃寺寸前となっています。今別にある本覚寺は、義経と円空縁の地が無くなるを惜しみ、檀家20軒を分け与え、本覚寺の末寺、浄土宗竜馬山義経寺として改めて開山し現在に至っています。
義経寺・境内: 山門は切妻、銅板葺、三間一戸、八脚単層門、両側には仁王像(金剛力士像)が安置されています。観音堂は切妻、鉄板葺、妻入、間口3間、奥行5間半、正面1間向拝付、神社の社殿形式に近く背後には本殿と思われる小祠が配置されています。本堂は入母屋、銅板葺、平入、桁行6間、梁間6間、正面1間向拝付、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ。境内からは津軽海峡が一望出来景勝地にもなっています。
義経寺は太宰治(青森県出身の小説家)の小説「津軽」の舞台の1つでもあり、太宰と親友のN君は津軽の義経伝説に疑問を持ち、不埒な2人組が義経と弁慶を騙り無銭飲食や田舎娘を誑かしながら旅をしていたのだろうと語っています。
現在も義経寺には円空作と伝わる木彫観世音菩薩像(像高:52cm、一木造り、寛文7年:1667年の銘)が観音堂に安置(秘仏)されていて昭和38年(1963)に青森県重宝に指定されています。
津軽三十三観音霊場第19番札所(札所本尊:聖観世音菩薩・御詠歌:陸奥の 謂れをここに 来て見まや 浪打ち際に 駒ぞいさめる)。津軽八十八ヶ所霊場第15番札所(札所本尊:阿弥陀如来)。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。
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