【菅江真澄】−菅江真澄が始めて津軽半島の北端に位置する義経寺(青森県外ヶ浜町)を訪れたのは天明8年(1788)7月11日、当時は観音堂と呼ばれ、本尊である観音像の由来を次のように記載しています。昔、越前国(現在の福井県)の足羽の住民の霊夢に観音菩薩の化身が立ち、私は長い間この地を守ってきたが、願いが叶うならば、陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県)の三厩に行き、蝦夷地を行き交う船と浦の守護神となりたい、との御告げを受け観音像を受け取りました。しかし、中々機会がなく月日が流れましたが、ある日、久末と名乗る人が津軽に行き神社に収める大木を切り出すという話を聞き、久末に理由を話し観音像を預け、久末は三厩の定宿としていた船問屋伊藤五郎兵衛に預けました。伊藤は日頃信仰とは異なる宗派だった事から直ぐには祀らず大切にしまっていると、円空と名乗る旅僧が松前に渡る為三厩に訪れ偶然に伊藤家に宿泊しました。円空に観音像の話をすると、「それでしたら、私が厩岩の上の御堂を建て観音像を祀りましょう。」といい早速御堂が建てられました。観音像を調べてみると、源義経が戦の際、兜に付けた1寸2分の銀製の仏像で足羽に使わせた事が文書に記され義経の花押もあった事から、有難いものとして、円空も新たに観音像を彫刻し、胎内に義経縁の像を収めました。その後、御簾の裏に安置され大切に祭られていましたが、ある日、御簾を上げ多くの人に参拝してもらったら、突如天空が乱れ暴風雨となった為、以来、この観音像は秘仏となり住職をはじめ、誰も見た人がいなく、三厩宿で一番尊い場所だとしています。
【源義経・伝説】−源義経は奥州平泉(岩手県平泉町)の衣川の合戦で自刃したのが通説ですが三厩宿では、実は義経は生きていて、蝦夷地に船で渡る為に当地に辿り着いたとしています。しかし、津軽海峡には暴風雨が吹き荒れ中々渡る事が出来なかった為、義経が持仏である観音像に3日3晩祈願すると、空から3匹の竜馬が現れ、それに乗って無事に蝦夷地に上陸出来たと伝えられています。
【義経寺】−伝説の真偽は不詳ですが、古くから三厩港と守護神として海運業者や漁業関係者、松前藩から崇敬庇護され、鳥居や石灯籠、33観音石像、絵馬などが奉納され安政2年(1855)に厩岩から現在地に境内を移しました。明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈運動により廃寺になる予定でしたが、当時の本覚寺(今別町)住職が尽力し改めて義経寺として開山しました。円空が彫刻したされる観音像は青森県の県宝に指定されています。津軽三十三観音霊場第19番札所。
菅江真澄が記載した義経寺の由緒と現在いわれている義経伝説とは大部異なり、真澄が三厩宿に訪れた時にはまだ義経伝説が確立していなかったと思われます。現在は円空が三厩宿に訪れた際、厩岩の上に祀られていた観音像の化身が霊夢に現れ、上記の伝説を告げられた事を受け観音像を彫刻した事になっています。
【古川古松軒】−古川古松軒が三厩宿を訪れたのは天明7年(1787)7月18日、天候が荒れた為、数日間滞在する事を余儀なくされ越後屋権十郎宅に宿泊しています。ここで、三厩での義経伝説を聞いたようで次のように「東遊雑記」に記しています。源義経が蝦夷に渡航の際に従者30余人、馬3匹で当地に訪れると漁師の家しかなく、馬は大岩に空いていた洞窟に入れたそうです。その伝説から三馬屋浦と呼ばれるようになったとしています。
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