青森県:外ヶ浜町・今別町・中泊町

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津軽半島:歴史的人物

津軽半島(青森県外ヶ浜町)

【円空】円空弘前城の城下町で弘前藩側と問題を起こし、寛文6年(1666)1月26日に追放となり青森を経由して蝦夷地に向かいました。この事は弘前藩の正式な記録書に記されている為に略正確と思われます。その後、蝦夷地までは幾つかの選択肢がある為、円空がどの様な経路を選択し蝦夷地に渡航したのは不詳ですが、津軽半島の東沿岸を縦断する奥州街道(松前道)を北上し三厩宿から竜飛岬を横目に見て蝦夷地に渡航した経路が有力視されています。奥州街道(松前道)の津軽半島に位置する宿場町である、油川宿(青森市油川)の浄満寺、蓬田宿(青森県蓬田村)の正法院、平舘宿(青森県外ヶ浜町)の福昌寺、三厩宿(青森県外ヶ浜町)の義経寺には円空が彫刻した木像が伝えられており、正に円空が歩んだ道程を示しているような印象を受けます。特に義経寺は円空により創建したとの由緒が伝わり関係性が窺えます。

【古川古松軒】古川古松軒が津軽半島を訪れたのは天明7年(1787)の事で弘前城の城下町から羽州街道を経て奥州街道(松前道)を北上し7月16日に油川宿、7月17日に平舘宿、7月18日に今別宿、7月18日に三厩宿、7月20日に三厩宿から竜飛岬を横目に見て蝦夷地に渡航、復路は8月20日に三厩宿に上陸し、8月23日に青森宿に向けて出港しています。古川古松軒は津軽半島の東沿岸部の宿場町について詳しく記しており、特に農作物が余り取れず多くは漁業や林業を生業として、全て浜には弘前藩の管理する良質の木材(桧)が数万本が積み重ねられて、大坂周り(北前船:西回り航路)になるようだとしています。又、津軽半島の海岸は奇岩怪石や無名の滝が見られ古川古松軒も興味深かったようです。風俗的には余りよろくし無かったようで、特に女性は櫛で髪の毛をくるくる巻きとし、少女から老人まで眉毛を剃らず、着ているものも綴れを纏う程度でうまれのままだと評しています。津軽半島の地形を把握するのもかなり難儀していたようで、古川古松軒が描いた挿絵も雰囲気程度の出来前で、地元の人や案内人に聞いても距離すら把握していないと嘆いています。

【菅江真澄】菅江真澄は長期間津軽に滞在している為、全ては把握出来ませんが天明5年(1785)に蝦夷地を目指し、津軽に入ったものの、飢饉により津軽半島の村々が荒廃しているを目の当たりにして渡航を断念し、3年後の天明8年(1788)に再び蝦夷地を目指し、津軽半島の東沿岸を縦断する奥州街道(松前道)を北上し三厩宿に至っています。三厩宿では特に義経寺について詳しく記しており、源義経の北方伝説に興味があった事が窺えます。

【伊能忠敬】伊能忠敬が津軽半島を訪れたのは寛政12年(1800)の第1次測量、享和元年(1801)の第2次測量、享和2年(1802)の第3次測量で何れも三厩宿の工藤忠兵衛宅を定宿としています。

【吉田松陰】吉田松陰が津軽半島を訪れたのは嘉永5年(1852)の事で、3月5日に小泊を出立し算用師峠を越えて竜飛岬、三厩宿に至っています。この算用師峠は冬場の雪中行軍で踏破し、弘前藩が冬場の交通を規制していた難所でもあり、現在は「みちのく松陰道」と命名されています。又、竜飛岬には「吉田松陰碑(去年の今日巴城を発す)」が建立されています。

【源義経】源義経は正室久我御前が命を絶った事で数年間過ごした八戸を去る決心をし、青森を経由し十三湖沿いを北上し十三湊に至ったとされます。その後、津軽半島の北端近くに位置する三厩まで行軍し、ここから蝦夷地に渡航したと伝えられています。渡航の際には悪天候に見舞われ為、義経が持仏に祈念すると天候が晴れ、神馬が出現して蝦夷地まで導いたとも云われ、地名の三厩はその伝説に因んだものとされます。竜飛岬には義経が締め直したと伝わる帯島があります。

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