弘前城: 城下町

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弘前城

弘前城

【円空】円空弘前城城下町に何時頃に来訪したのかは判りませんが、寛文3年(1663)11月6日時点では現在の岐阜県郡上市美並町根村に鎮座する神明神社の神像である天照皇太神像、阿賀田大権現像、八幡大菩薩像を彫刻した事が棟札により判っています。その後の経緯、経路は不詳ですが、寛文6年(1666)の時点では弘前城の城下町に滞在し現在の青森県弘前市新寺町に境内を構える西福寺で十一面観音菩薩立像(青森県重宝)と地蔵菩薩立像(青森県重宝)、青森県弘前市西茂森に境内を構える普門院では十一面観音菩薩立像(弘前市指定有形文化財)を彫刻しています。しかし、円空と弘前藩の間に何らかな問題が発生し、「弘前藩庁日記」の寛文6年(1666)1月29日(旧暦3月4日)の条によると、円空と申す旅僧一人を罷免して、弘前藩領から追放する事になり1月26日に弘前城の城下から罷出して青森を経由して松前に向かった事が記されています。

【古川古松軒】古川古松軒が弘前城を訪れたのは天明7年(1787)7月15日、前日は碇ヶ関宿で宿泊し、羽州街道を北上して弘前城の城下に至り宿泊しています。弘前は津軽家4万6千石の城下町、3千余軒の大きな町で、弘前城は山城で要害のようだが良く見えなかったとし、巡見使が物珍しく身分を問わず多くの人が見物したそうです。翌、7月16日には出立しています。

【菅江真澄】菅江真澄は寛政9年(1797)6月に浅虫温泉で弘前藩の藩医である小山内玄貞と出会い、真澄が本草学に精通していた事から弘前藩の採薬御用の手伝いをする事になりました。真澄は小山内玄貞や山崎清朴などと領内の様々な所に分け入り、そこで採取した薬草を弘前城の一角にある薬草園に植え替えし大きな成果を挙げました。しかし、その後は依頼される事は無く、逆に寛政11年(1799)に弘前城に呼び出され厳しい取り調べを受ける事になりました。そこでのやり取りは判りませんが、結果的にその後に著した「岩木山物語」、「善知鳥物語」、「浪岡物語」の3冊は取り上げられると、寛政13年(1801)領内追放が言い渡され久保田藩(現在の秋田県)に向かう原因となっています。

【伊能忠敬】伊能忠敬が弘前城の城下町を訪れたのは第3次測量が行われた享和2年(1802)9月4〜5日(旧暦8月8〜9日)で大鰐村から岩城山、石川村から八甲田山を測量し土手町の三国屋吉郎右衛門宅に宿泊しました。

【吉田松陰】吉田松陰が弘前城の城下町を訪れたのは嘉永5年(1852)閏2月29日、この日は矢立峠を越えて津軽領に入り、碇ヶ関宿近くの温泉で汗を流し、大鰐温泉を経て弘前で宿泊しています。翌3月1日は弘前藩儒学者である伊東広之進(梅軒)の邸宅を訪ね、軍事や教育、国事などの談義を行っています。3月2日には荒谷貞次郎(山鹿素水の弟・山鹿素水は江戸時代の兵学者で、津軽藩出身だったものの諸国を遍歴し、各地の藩主や藩士に山鹿流兵学を伝授し、その中の一人が吉田松陰でした。松陰はその縁から弟である荒谷貞次郎に挨拶に訪れたと思われます。)宅に訪れた後、弘前城の周辺を一回りして宿所(正確な場所は不詳ですが本町に屋敷を構える屋号「相庄」を掲げる旅籠とも云われています。)に一端戻り、再び伊東広之進宅を訪ね大いに議論を重ねました。話が盛り上がり過ぎた為、弘前城の城下町を出立したのは午後4時頃で、結局、羽州街道の次の宿場町である藤崎宿で宿泊しています。

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