菅江真澄: 浅虫温泉

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浅虫温泉

菅江真澄:浅虫温泉

【菅江真澄】菅江真澄が始めて浅虫温泉青森県青森市)を訪れたのは天明8年(1788)7月6日、肌赤島、湯の島などを見ながら温泉街に入ります。当時の浅虫温泉には滝の湯、目の湯、柳の湯、おお湯、はだか湯、などがあり、温泉街を軒を連ねて構成する家々のうしろにも湯があって大変好感を持っています。温泉街の中には煮坪と呼ばれる得に熱い源泉が湧き出ていて、7月の末には畑で育てた麻を収穫し、その麻を煮坪に浸すと短い間に蒸しあがったとされ、それが地名に転じて「麻蒸」という地名が起こり、度々火災が起きると火に関連する事から「浅虫」に改めたと古老の村長が話していたそうです。さらに、真澄が浅虫温泉の湯けた(湯船)の数を質問すると、津軽の地には数多くの温泉地があるが浅虫温泉が一番湯船がありますと答え、温泉街の名所に案内してもらいました。まず最初に訪れたのが温泉街を見下ろせる高台に境内を構える八幡宮で、ここで参拝すると拝殿には観音像が安置され、西国三十三観音霊場を模した津軽の三十三観音霊場があり、八幡宮はその23番札所であると説明を受け、境内には御詠歌の「月の日も波間に浮むはだかしまふねに宝をつむここちせり」の札が掛けられていました。その後、別当である優婆塞と話した後に夢宅庵(現在の夢宅寺)に参拝するとここでは浅虫温泉の守護神(湯の神)として薬師如来仏が祀られていました。

次に菅江真澄が浅虫温泉を訪れたのは寛政7年(1795)3月27日、湯浴びしたかは不詳ですが、浅虫温泉に由来とし、あざのある蛇が住んでいた、湯ぶねで麻蒸した事を述べています。

次に菅江真澄が浅虫温泉を訪れたのは寛政10年(1798)3月半ばから4月初め頃まで浅虫温泉に長期に渡って湯治を行っています。

【古川古松軒】古川古松軒が浅虫温泉を訪れたのは天明7年(1787)8月24日、巡検使一行は浅虫温泉で昼休みをとっています。浅虫温泉は浜辺の近くにある温泉地で、湯つぼから湧き出す大変熱い源泉が川に流れ湯気が煙のようだと記しています。又、津軽には温泉地が多く特に岩木山の山麓にありますが、上方や中国にある温泉のような効能がないようだと評しています。

【浅虫温泉】−浅虫温泉(青森県青森市)は貞観18年(876)、慈覚大師円仁(平安時代の高僧、第3代天台座主、入唐八家)が当地に巡錫で訪れた際に発見したとも、建久元年(1190)に円光大師(法然:浄土宗の開祖)が当地に巡錫で訪れた際に傷ついた1頭のカモシカが湯浴びをし傷を癒しているのを発見したのが始まりとされます。江戸時代に入ると奥州街道(松前道)が温泉街を通過していた事から多くの旅人や商人にも利用され、特に弘前藩(藩庁:弘前城)の藩主津軽家も温泉街に本陣(御仮屋)を設けて湯治を楽しんだようです。明治時代に入ると「青森の奥座敷」として全国的にも知名度が広がり、青森県出身の太宰治(昭和初期の日本を代表する小説家)や棟方志功(板画界の世界的巨匠の1人)をはじめ文人墨客も数多く訪れました。

【八幡宮】−地元の鎮守で、弘安5年(1282)又は延宝2年(1674)に諏訪十郎義國が勧請したのが始まりとされます。津軽三十三観音霊場23番札所は夢宅寺に移されています。祭神は譽田別尊。

【夢宅寺】−夢宅寺の創建は貞観18年(876)、浅虫温泉を発見した慈覚大師円仁により開かれ、その際、温泉の守護神として自ら薬師如来像と地蔵尊像を彫刻して安置したと伝えられています。江戸時代に入ると弘前藩津軽家の祈願所となり、特に4代藩主津軽信政が眼病平癒の祈願し、浅虫温泉に入湯したところ、忽ち平癒したそうです。八幡宮から津軽三十三観音霊場23番札所が移され、津軽八十八ヶ所第26番札所にも選定されています。

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