青森県:菅江真澄

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菅江真澄

天明5年(1785)−蝦夷地を目指し出羽久保田藩(現在の秋田県)から日本海側を北上し、大間越街道弘前藩に入ります。現在の鯵ヶ沢町から旧森田村辺りでは難破船を数多く見るようになり、さらに天明の飢饉の為、餓死や病死した白骨が散乱していることを目の当たりにし、酷い所では死体が折り重なり道を防ぐ程で住民の話を聞くと、飼っている牛馬だけでなく、死にかけた親族も生きている内に刺し殺し血肉を食う人が後を絶ったなかったそうです。その後、板柳の村の宝量宮(現在の海童神社)や猿賀村の深砂大明神(現在の猿賀神社)を経て青森宿(湊)に入り情報を集めると、渡航地である三厩宿までの奥州街道沿いが予想以上に疲弊し、旅人などは襲われる危険性や食事すら与えられない事を知り、青森の鎮守である善知鳥神社の占いでも3年間は無理との御告げがあり蝦夷地渡航を断念します。真澄は羽州街道を南下して乳井村の毘沙門堂(現在の乳井神社)や大鰐温泉、国上寺を経て、碇ヶ関関所に至り、出羽国に入り奥州平泉(現在の岩手県平泉町)を目指します。

天明8年(1788)−盛岡藩から奥州街道で三戸宿に入ったのは7月3日、浅水宿、五戸宿、七戸宿を経て千曳明神(現在の千曳神社)を参拝、千曳の石(壷の碑)について説明をし、野辺地宿に入り、馬門関を経て再び弘前藩に入ります。清水川村を過ぎた所で雷電宮の前を通過、小湊村を過ぎ浦の関所を越えて浅虫温泉で湯浴びをしています。野内の貴船神社で参拝した際には神主から神社の由来などを聞き及び、京都の貴船神社の分霊を勧請した事や、境内の弁財天には鬼が女十郎姫又は源義経の室である旭の前が祀られている事などを記録しています。青森に入ると再び善知鳥神社に参拝し、津軽半島の東沿岸に延びる奥州街道(松前道)を北上、蓬田宿、蟹田宿、平舘宿を経て三厩宿に至り、三厩宿では義経寺円空や義経の由来などを記録し、蝦夷地の松前藩に入ります。

寛政4年(1792)−10月7日、松前(北海道松前町)から下北半島の奥戸(青森県大間町)に渡り、佐井村の八幡宮(現在の箭根森八幡宮)の参拝や仏が宇多(現在の仏ヶ浦)の見学などを行い、方向転換して大畑村に向っています。大前から恐山を目指しましたが大雪の為断念し、田名部を経由して山の湯(現在の恐山温泉)に向かいます。恐山では菩提寺に宿泊し湯浴びや地獄巡りなどを楽しんで再び田名部に戻っています。暫くは南部藩領の田名部を拠点に活動し、春になると再び佐井村まで足を運び仏が宇多(仏ヶ浦)を見学、海沿いを南下し田名部に戻り、特に恐山に興味があったようで詳細に記録されています。

寛政7年(1795)−3月22日、津軽の島山(夏泊半島)を見に再び馬門関所を経て黒石藩領に入り雷電宮(平内町)を参拝、椿崎や鎧崎などを訪れ椿明神(現在の椿神社)を参拝しています。その後は弘前藩領や黒石藩領を歩き、紫雲山来迎寺(黒石市)の花山院忠長縁の松や、宝厳山法眼寺(黒石市)の梵鐘、温湯温泉(黒石市)などを見て再び深砂大明神(現在の猿賀神社)を訪れています。

寛政8年(1796)−3月1日には百沢寺を訪れ境内にある下居の宮(現在の岩木山神社)を参拝、その後、岩木山の登拝し津軽平野を眺め、下山すると高照霊社(現在の高照神社)を参拝しています。4月に入ると現在の三内丸山遺跡を見学、その後、乳内(現在の青森市入内)の小金山神社を参拝し様々な滝を廻っています。5月に入ると大星神社などを参拝しながら蔵舘に入り大日如来を参拝、その日は大鰐温泉で湯浴びをして宿泊、次の日には乳井村に入り多聞天の堂(現在の乳井神社)を参拝しています。6月に入ると十三湖を見学に出立、金木八幡宮川倉芦野堂、春品寺(現在の春日内観音堂)、山王坊跡、安倍氏館(福島城)、権現崎、七つ滝などを見学しています。7月に入ると日本海側の南下し7月16日には深浦町の春光山圓覚寺を訪れ現在国指定重要文化財に指定されている薬師堂内厨子を見学し飛騨の匠が絶てたものとし、大間越宿では毎年、雌鹿、雄鹿、中鹿が戯れるように舞い、賑っているうちに夜がふけたと獅子踊の記録を残しています。数ヶ月深浦で過ごし10月終盤に岩木山にある「暗門の滝」に向けて出立、種里八幡宮などを参拝してから暗門の滝に至っています。

寛政9年(1797)−昨年、暗門の滝から深浦に戻ってから長期間滞在し、深浦を出立したのは5月に入ってからで、甕杉(阿弥陀杉)の見学や岩鬼山大権現(現在の巌鬼山神社・十腰内観音堂)や小倉明神を参拝し、藤崎宿では安東氏縁の史跡などを見学。6月に入ると弘前藩主津軽寧親から召還され藩校稽古館の薬事係に任命、真澄は藩医と共に弘前藩の医療向上に尽力しています。2月10日には深浦町の春光山圓覚寺を訪れ「木々の芽も春の光のやまのはは花とみゆきの霧も長閑かさ」の句を残しています。

寛政10年(1798)−3月から4月にかけては浅虫温泉に湯治、その後、弘前城下でも長期滞在し5月に入り弘前城下を出立、小倉の神明社などを参拝し岩木山を登拝、下山後に岳温泉に湯浴び、その後、大石大明神(現在の大石神社)などを参拝し深浦に至っています。暫く深浦を拠点に薬草採取を行い、深浦町では特に竹越忠右衛門里圭(船問屋若狭屋の主人、俳人)と仲がよかったようで6月9日には「かたり合にをりよく風の薫かな 里圭」、「秋とあざむく庭の真清水 真澄」の句を詠みあっています。深浦から出立後、観音堂などを参拝して弘前に戻っています。

寛政11年(1799)−薬事係を解任、報酬と帰国費用が与えられますが、真澄は弘前藩を退去せず、自らの意思で領内を細かく調べ上げ「岩木山物語」、「善知鳥物語」、「浪岡物語」を編纂、この行為が藩では問題視されるようになり、3冊は没収。

寛政13年(1801)−盛岡藩の間者(スパイ)と判断され弘前藩を追放されます。真澄は大間越街道で深浦に赴き、住民と篤く交流し、菅江真澄関係文書と菅江真澄直筆「社参次第」が深浦町指定文化財に指定されています。真澄は深浦から船に乗り、海路で久保田藩(現在の秋田県)に向っています。

菅江真澄が弘前藩に滞在した期間に記録した「外浜奇勝」は当時の民衆の生活習慣や、景観、動植物、社寺の由来などの詳細が絵画を添えて詳細に記載されている事から資料的な価値が高く平成26年(2014)に青森県の県宝に指定されています(ただし、全文ではなく、弘前藩が知られては問題がある部分は削除したとされます)。

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