【菅江真澄】−菅江真澄が始めて大石神社(青森県弘前市)を訪れたのは寛政10年(1798)6月2日、境内には大きく寝そべっている岩や立った岩があり、所謂、石割松や石割杉が生えていた。その大杉の下部にある枝には無数の紙が結び付けられ、恋愛成就や夫婦和合、豊乳の祈願をした印として結んでいるようです。
【大石神社】−大石神社の神社として創建は慶長17年(1612)に弘前藩二代藩主津軽信牧が境内を整備した事を始まりとしますが、当地は古くから岩木山の登拝道が通り、御神体となっている巨石は登拝者からは信仰の対象になっていました。御神体より上が岩木山三所権現の聖域(赤倉山霊界)、下が一般庶民が住む人界を分ける境界石として登拝者はここで一礼する事で身を清め、山頂を目指しました。特に形状が陰陽石のようだった事から、菅江真澄が見聞きした通りに恋愛成就や夫婦和合、豊乳、安産などに御利益があるとして広く信仰を集め、又、水源域に鎮座していた事から水神として雨乞いなどの祈祷が行われ、それが転じて農耕の神として数多くの白馬の木像が奉納されています(境内は現在でも白馬の木像が数多く安置され、他の神社とは一風異なる独特な雰囲気が漂っています)。その後、元禄5年(1692)に広須組木造組衆が天候祈願をした際、社殿が著しく破損していた事から社殿を再建し、正徳5年(1715)に全く雨が降らなかった事から弘前藩(藩庁:弘前城)藩主津軽家が京都の吉田家に頼み「大石大明神」の神号を賜り、享保4年(1719)に五代藩主津軽信寿が社殿を再建しています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、上記の御利益に順ずる高皇産霊神と神皇産霊神の分霊が改めて勧請され、社号を「大石神社」に改めて明治9年(1876)に村社に列しています。
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