菅江真澄: 川倉芦野堂

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川倉芦野堂

菅江真澄:川倉芦野堂(青森県五所川原市)

【菅江真澄】菅江真澄が始めて川倉芦野堂青森県五所川原市)を訪れたのは寛政8年(1796)6月18日、十三湖を目指していた真澄は前日、喜良市村(五所川原市金木町)の村長岡田家に宿泊、今朝出立して金木の里に入りると鎮守である八幡神社(現在の金木八幡宮)を参拝し、その後に「ししの滝湯」で湯浴びして川倉村(五所川原市金木町)の観音林に至りました。ここでは阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩の3体の木像が祀られていて、仕上り具合から樵が斧なので製作したものと推察しています。住民達は本来は仏教の仏像を神様(神道)のように信仰し、幣を捧げ、注連縄を張っている。みちのく(東北地方)は仏を神として祭る事が慣わしが常だが、日本全体でも同じような事が行われている(東北地方は日本の縮図のようなものだというような調子で述べています)。

【川倉芦野堂】−川倉芦野堂の創建は弘前藩(藩庁:弘前城)3代藩主津軽信義が戦国時代に争乱により当地で犠牲になった戦死者と地域の開発に尽力し命を失った者の慰霊の為、観世音菩薩を本尊と迎え御堂を造営したのが始まりとされます。その後、何時頃かは不詳ですが阿弥陀如来、薬師如来も一緒に祭られるようになり、寛延年間(1748〜1751年)には津軽三十三観音霊場第十三番札所に指定され、安政2年(1855)に飛竜権現を勧請合祀した事で飛竜三社大権現と呼ばれるようになります。明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈により仏教色が一掃され三柱神社に改称、一時、金木八幡宮に合祀され廃社となりましたが住民達の懇願により再び独立が認められり明治9年(1876)に村社に列しました(阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩の3体の木像は住民が役人に渡す事を拒否し所在不明となっています)。さらに、昭和5年(1930)に三柱神社の境内に観音堂が再建し3体の仏像も新たに彫刻し奉納され現在に近い形式となっています。

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