菅江真澄: 金木八幡宮

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金木八幡宮

菅江真澄:金木八幡宮(青森県五所川原市)

【菅江真澄】菅江真澄が始めて金木八幡宮青森県五所川原市)を訪れたのは寛政8年(1796)6月18日、十三湖を目指していた真澄は前日、喜良市村(五所川原市金木町)の村長岡田家に宿泊、今朝出立して金木の里に入りると鎮守である八幡神社が由緒のある神社と聞いて参拝しています。その時の様子は「大蔵の松」が拝殿の屋根を覆っていたと記し、由来については、当時の藩主(弘前藩4代藩主津軽信政と思われます)の兄弟で大蔵(弘前藩3代藩主津軽信義の8男津軽大蔵為貞と思われます)が手植えしたという。参拝を終え、神主である佐々木家に休息したいと求めると、予想以上に篤く遇され、「ところてん」を沢山盛った綺麗な皿と湯漬けなどが出されたので、暑さも忘れてついつい長居してしまい、深く御礼をして別れたそうです。

【津軽為貞】−津軽為貞は先代の8男だった事から信政の命で高野山(和歌山県伊都郡高野町)の自性院に入り住職となりました。しかし、元々自由気ままな性格だったようで、寛文8年(1668)には許可無く自性院を離れ弘前に戻ると還俗して大蔵を名乗っています。しかし、この行為は信政の逆鱗を買い、家臣である工藤家の預かりの身となり金木村に蟄居となりました(その後復権し800石取りの城代家老となった)。金木八幡神宮の松は為貞が金木村に蟄居中に植えられたと思われますが明治38年(1905)の火災により焼失しています。

【金木八幡宮】−金木八幡宮は大永年間(1521〜1527)、浪岡城の城主北畠具永により創建された神社で、創建当初は金木川の上流に境内を構えていましたが後に現在地に移りました。伝承によると南北朝の動乱で南朝方の有力武将だった北畠顕家は南朝の事実上の敗北により没落し、その一族が縁が深い安東氏の庇護により浪岡城の城主に就任、大川舟運の守護神である八幡宮を北畠家の祈願所としたと伝えられています。天正年間(1573〜1591)、当時の領主大浦為信(後に弘前藩:藩庁弘前城を立藩)が戦勝祈願すると見事、念願成就した事から、以後、津軽家の祈願所として崇敬庇護されます。安永3年(1744)には金木組24ヵ村の総鎮守に指定され、民衆にも信仰されるようになりました。

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