【源義経】−源義経は正室久我御前が命を絶った事で数年間過ごした八戸を去る決心をし、青森を経由し十三湖沿いを北上し十三湊に至ったとされます。十三湊は物資流通の経路となった十三湖の北端に位置する良港と知られ、平安時代末期頃には藤原秀衡(奥州藤原氏第3代当主)の弟である藤原秀栄が配されていました。秀栄は十三湖の湖畔に近い場所に福島城を築城し、壇林寺を創建するなど奥州平泉氏の津軽の拠点として重きを成していたようです。義経は秀栄を頼って十三湊を目指したとし、福島城や壇林寺で滞在したとの伝承が残されています。秀栄の後裔は十三氏を名乗り引き続き当地を支配しましたが、藤崎城の城主で、安倍貞任の後裔を自称する安東氏の台頭により滅ぼされとされます。
【菅江真澄】−菅江真澄は寛政8年(1796)6月に十三湖に向かって出立、6月18日に金木八幡宮(青森県五所川原市)、同日に川倉芦野堂(青森県五所川原市)、6月23日に春品寺(現在の春日内観音堂)、同日に山王坊跡(青森県五所川原市)、同日に安倍氏館(福島城)、同日に権現崎、七つ滝などを見学しています。6月27日に十三湊に入ると能登谷という問屋に宿泊し、十三湖の船渡しの様子を記しています(三本を寄り合わせた網を引き回した渡し舟には馬と人が折り重なるように入船し危なげに渡している事がおもしろいと評しています)。
【吉田松陰】−吉田松陰は弘前城の城下を出立すると小泊の台場の視察と、場合によっては蝦夷地への渡航を計画し、嘉永5年(1852)3月4日に十三湖の東湖畔を北上しました。そこで吉田松陰は十三湖を一望出来る高台に登り、「山は潟に臨みて岩城山に対す。真に好風景なり。」と評しています。
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