伊東梅軒: 伊東梅軒は弘前藩士で松陰と同様に全国を遊学し広く知識を治めた人物で弘前藩の藩校である「稽古館」で学んだ後は江戸や大坂で勉学に励み篠崎小竹などに師事しています。さらに、長崎の外国船を視察する為、大坂から西日本を遊学し、各藩の藩校の視察や識者からの教鞭などを受け、文人墨客や政治や外国などに興味のある人物などを交流を深めました。その内の1人が吉田松陰であり宮部鼎蔵だった事から松陰が弘前城下に入ると、伊東梅軒の邸宅を訪れ、特に弘前藩の海防の有り様や弘前藩の教育について講義を受け大いに議論したそうです。松陰は2日間に渡り伊東宅を訪ねており「男児欲略北夷陲 難奈吾無百万師 猶忻半日高堂話 幸為此行添一奇」の漢詩を残しています。現在、松陰が議論を行った部屋が保存され「松陰室」として弘前市指定史跡に指定されています。
平舘台場: 案内板によると「 平舘台場跡は、嘉永2年(1849年)に弘前藩が構築した砲台である。弘化4年(1847年)に平舘に異国船が現れ、乗組員が上陸したことを受け、弘前藩が台場を設置した。台場の遺構は、やや扇形をした土塁に囲まれており、大砲を据えたと考えられる窪地が7ヶ所、出入口が2ヶ所残されている。土塁の高さは約2.3m、幅は概ね10m、土塁内部は南北80m、東西11m程である。土塁には33本の松が植えられている。平坦地に造られた7つの砲台を持つ西洋流の台場として重要である。 外ヶ浜町教育委員会 」とあります。
三戸城: 三戸城(青森県三戸町)は盛岡藩の藩主南部家が中世ながく居城として山城です。江戸時代に入り藩領が大きく南に偏った事から三戸城から盛岡城(岩手県盛岡市)に本城を移転し、一国一城令が発令されると三戸城も廃城となっています。しかし、建物などの施設は取り壊されたものの、城郭としては維持管理され、火急の際は再利用出来るような体制が整えられていたそうです。何故、吉田松陰が三戸城を見学したのかは判りませんが、国防の一環として珍しかったのかも知れません。
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