青森県:吉田松陰

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吉田松陰・東北遊学

吉田松陰・概要: 吉田松陰は長州藩士で幼少の頃から勤勉で諸国を遊学する事で知識と視野を広げました。嘉永4年(1851)、江戸遊学で友人となった宮部鼎蔵らと東北遊学を約束し松陰も藩に出国の手続きをしましたが、不手際により中々許可が下りませんでした。約束の当日、松陰は悩んだ末、自分が友人の約束を破る事は、罪を犯す事よりも重いと判断し長州藩を脱藩。江戸に帰ってきた際には事実上の改易となり親族まで処分が下りました。その後は、外国留学を画策し、ロシア軍艦やペリー艦隊への乗り込みを計画しましたが何れも失敗し、その罪により長州藩に強制的に帰国させられ野山獄に入獄させられています。安政2年(1855)以降は出獄し、杉家(吉田松陰の実家)に幽閉となり、安政4年(1857)、叔父の玉木文之進が主催し松陰の学び屋でもあった松下村塾を引き継ぎ、多くの門弟を育てました。その後、子弟の教育を行う一方で幕府の批判を強め、倒幕の計画をした事で再び捕縛され、安政6年(1859)に安政の大獄に連座して江戸で斬首刑になっています。松陰の門弟には高杉晋作や伊藤博文、山縣有朋など数多くの維新獅子を輩出している事から明治維新の精神的支柱だったとも云われています。

東北遊学・概要: 吉田松陰の東北遊学には水戸藩や仙台藩、米沢藩、会津藩など文武が優れた諸藩との交流と、当時、外国船が日本近海に出没し、その防衛施設の施設という大きな目的があったとされます。江戸を出立した松陰はまず水戸に向かい嘉永4年(1851)12月19日から嘉永5年(1852)1月20日までの約1ヶ月の間、水戸城(茨城県水戸市)の城下にあった永井政介宅に滞在し、当時最先端な教育が行われた水戸藩の藩校弘道館(茨城県水戸市)で会沢正志斎や豊田天功等に師事しています。奥州街道を北上して白河宿で宿泊し白河街道で会津若松に入り日新館などを見学、越後街道により新発田に抜けると、出雲崎から佐渡島に渡航し佐渡金山や奉行所などを尋ねています。新潟からは秋田に向かえ羽州街道を北上して大館城下を経て矢立峠から津軽に入っています。津軽を後にすると奥州街道を南下して盛岡城下、仙台城下、米沢城下を経て再び会津若松に入っています。会津若松から会津西街道(下野街道)を南下して日光、足利、館林を経て江戸に戻っています。

青森県:吉田松陰・行程

・ 閏2月29日−矢立峠で相馬大作事件の聞き込み、大鰐温泉(?)に入湯、石川を経て弘前城下で宿泊。
・ 3月1日−弘前城下・伊東梅軒宅:弘前藩儒学者の伊東広之進や津軽藩士と今後の国事等を議論。
・ 3月2日−弘前城下・荒谷貞次郎宅を訪ねた後に再び伊東梅軒宅を訪て鈴木善三郎らと国事を談、藤崎で宿泊。
・ 3月3日−田川、芦屋、繁田、神原、蒔田、豊岡、八幡を経て中里の加藤八九郎家で宿泊。
・ 3月4日−今泉,合津,十三湖を経て小泊で宿泊(太田半次郎大阪屋)。十三湖から岩木山の姿に感動。
・ 3月5日−小泊台場見学、算用師峠、津軽半島の三厩宿を経て袰月で宿泊。
・ 3月6日−平舘宿、平舘台場(西洋式砲台場)見学、船小屋の漁師と談笑、平舘湊から船で青森湊。船中泊。
・ 3月7日−青森湊で仮眠、奥州街道沿いに南下、マタギと談笑、野辺地宿で宿泊。
・ 3月8日−七戸宿を経て五戸宿で藤田武吉を訪ねた。五戸宿で宿泊。
・ 3月9日−三戸宿で三戸城を見学。蓑坂、金田一、松山を経て一戸で宿泊。

青森県の吉田松陰の伝承・詳細

伊東梅軒: 伊東梅軒は弘前藩士で松陰と同様に全国を遊学し広く知識を治めた人物で弘前藩の藩校である「稽古館」で学んだ後は江戸や大坂で勉学に励み篠崎小竹などに師事しています。さらに、長崎の外国船を視察する為、大坂から西日本を遊学し、各藩の藩校の視察や識者からの教鞭などを受け、文人墨客や政治や外国などに興味のある人物などを交流を深めました。その内の1人が吉田松陰であり宮部鼎蔵だった事から松陰が弘前城下に入ると、伊東梅軒の邸宅を訪れ、特に弘前藩の海防の有り様や弘前藩の教育について講義を受け大いに議論したそうです。松陰は2日間に渡り伊東宅を訪ねており「男児欲略北夷陲 難奈吾無百万師 猶忻半日高堂話 幸為此行添一奇」の漢詩を残しています。現在、松陰が議論を行った部屋が保存され「松陰室」として弘前市指定史跡に指定されています。

平舘台場: 案内板によると「 平舘台場跡は、嘉永2年(1849年)に弘前藩が構築した砲台である。弘化4年(1847年)に平舘に異国船が現れ、乗組員が上陸したことを受け、弘前藩が台場を設置した。台場の遺構は、やや扇形をした土塁に囲まれており、大砲を据えたと考えられる窪地が7ヶ所、出入口が2ヶ所残されている。土塁の高さは約2.3m、幅は概ね10m、土塁内部は南北80m、東西11m程である。土塁には33本の松が植えられている。平坦地に造られた7つの砲台を持つ西洋流の台場として重要である。 外ヶ浜町教育委員会 」とあります。

三戸城: 三戸城(青森県三戸町)は盛岡藩の藩主南部家が中世ながく居城として山城です。江戸時代に入り藩領が大きく南に偏った事から三戸城から盛岡城(岩手県盛岡市)に本城を移転し、一国一城令が発令されると三戸城も廃城となっています。しかし、建物などの施設は取り壊されたものの、城郭としては維持管理され、火急の際は再利用出来るような体制が整えられていたそうです。何故、吉田松陰が三戸城を見学したのかは判りませんが、国防の一環として珍しかったのかも知れません。

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