菅江真澄: 山王坊遺跡

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山王坊遺跡

菅江真澄:山王坊遺跡(青森県五所川原市)

【菅江真澄】菅江真澄が始めて山王坊遺跡青森県五所川原市)を訪れたのは寛政8年(1796)6月23日、前日、相内村で酒屋をやっていた三浦家で宿泊、今日は安倍(安東)一族の館を見学する為に朝出立し途中に春品寺の跡(現在の春日内観音堂)があるからといって当地に赴いています。春品寺の跡地からさらに奥に入り込んだ場所に山王坊の跡があり、次のように記しています。山王坊遺跡には弘智法印という名僧が住んでいたとの伝承が残っています。弘智法印は、度重なる功績を挙げた後、越後国野積(現在の新潟県長岡市寺泊町)の磯部の山で悟りを開き、木の実や草の実も絶ち「墨絵にかきし松風の音」の歌を残し、岩坂という場所で亡くなったとされ、現在でも海雲山西性寺(現在、新潟県長岡市寺泊野積にある西生寺、境内には弘智法印の即身仏が安置されています)に亡骸が生きているように安置されています。真澄は、弘智法印の伝承が残っているという事は、当地が生誕の地だったのか、山王坊で修行したのか、と推察しています。又、山王坊遺跡には沢山の石碑が転がったり、埋まっていたりしていた事から住民達が方々に持ち出し、勝手に利用したりしていたそうです。

【山王坊遺跡】−相内集落の住民には古くからの聖地として伝えられていたそうですが、昭和57年(1982)に本格的な調査によって、大規模な中世の遺跡である事が判明しました。津軽地方では中世の一級と言える信頼性の高い資料が少なく、どの程度、真実と合致しているかは不詳ですが「十三往来」という古文書で記載されている「十三千坊」は当地の事とする専門家もいるそうです。発掘された年代は安東氏が本拠としていた十三湊の遺跡と略同年代の室町時代とされる事から安東氏との関係が深いと推定され、礎石位置などから伽藍配置が全国で見られる神仏習合形式の社殿(仏殿)と類似する点が多く、神仏習合的な信仰や祭祀が行われていたと思われます。現在、旧境内の一角に後継神社と思われる山王坊日吉神社が鎮座しています。

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