源義経: 八戸城

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八戸城

源義経: 八戸城(青森県八戸市)

【八戸城】−源義経の北行伝説には青森県八戸市と関係が深いものが数多あり、特に八戸城の周辺が顕著です。八戸城自身は中世の砦が前身で、政治的、軍事的拠点は根城だった事から八戸城と義経が関係が深い訳ではありませんが、何故か八戸城の内外で多くの伝説が残されています。まず、八戸城の本丸にある大岩には足形と思われる窪みが3カ所あり、これは源義経の従者である武蔵坊弁慶が力自慢を誇る為に態々足形を印したものと伝わり、地元では「弁慶石」と呼ばれています。以前は「義経石」という石もあったようですが現在は所在は不明で、由来等も良く判りませんでした。

【おがみ神社】−八戸城の2の丸に鎮座するおがみ神社は八戸城より歴史が長く、鎌倉時代初期の元久年間(1204〜1206年)、義経が当地に滞在中に義経の正室(久我御前)で京都の久我大臣の姫君が死去(自害したとも)した為に京ヶ崎(現在の八戸城)に葬られ、後に法霊大明神として祭られるようになったと伝えられています。又、おがみ神社の社宝である青銅の手鏡は久我御前の愛用したもの伝えられています。これらの伝承は、おがみ神社が管理している類家稲荷神社(類家稲荷神社も源義経が勧請した。)の縁起由来が記されている「類家稲荷大明神縁起」によるもで、江戸時代中期の享保17年(1732)に八戸藩の藩医である関諄甫が類家稲荷神社に関係が深い榊家から聞いた話をまとめたものとされます。久我家は村上源氏(中院流)の総本家、源氏堂上十家のひとつで、身分的には義経を排斥した源頼朝を上回る格式を有していた事になり、義経を正当化する理由の一つに仕立てられています。※おがみ神社は本来、八戸の産土神として義経の北方伝説以前から信仰されていた可能性が高く、江戸時代には八戸藩の総鎮守として篤く庇護されています。

【長者山】−八戸城から丁度南方にある長者山にも義経の伝説が伝わり、案内板によると「当地方に伝えられている伝説によれば、平泉にいた義経に命令された家来の板橋長治と喜三太が義経の居所をこしらえようと柴を回し木を植え、みだりに人が入らないようにした地と伝えられており、昔は長治山と呼んでいたと言われてる。それが今では長者山と呼んでいる。 社団法人八戸観光コンベンション協会 」とあります。江戸時代に入ると長者山周辺には八戸藩主南部家縁の社寺が集められ、山頂付近には南部家の祖である新羅三郎義光(河内源氏2代目棟梁源頼義の3男)の御霊を祭る新羅神社が創建されています。

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