源義経・概要: 文治5年(1189)、藤原泰衡は兵500騎を率いて、源義経が籠る衣川館を急襲、義経の家臣は悉く討たれ、自身も自害して果てたとされます。しかし、岩手県と青森県の一部では、死んだのは影武者で、義経は密かに平泉を脱出し種差海岸に上陸、八戸周辺に潜み、津軽半島の三厩から蝦夷地(北海道)に渡ったとの伝承が残り信じている人も少なからずいます。これらの伝承、伝説は少なくとも江戸時代初期には存在し、それを補完するような神社や史跡などが数多く存在します。文献的には寛文10年(1670)に編纂された「続本朝通鑑」で衣川で義経は死んではおらず、蝦夷に渡って子孫までいると記載され、貞享5年(1688)には水戸藩主徳川光圀が編纂した「大日本史」にも同様な事が記載され、義経が死んだとされる日から首実検までは43日後に行われていることから、初夏の暑い季節では腐乱し確認する事は到底不可能で、これは義経の死を偽り、その隙に蝦夷に逃れたとし、現在では義経はアイヌ人の神として祀っていると説明しています。江戸幕府もそれら伝説をアイヌの同化政策に悪用し、さらに、幕末から明治時代初期にかけては義経が大陸に渡り満州人やジンギスカンになったとの噂が流布するようになっています。
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