菅江真澄: 仏ヶ浦

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仏ヶ浦

菅江真澄:仏ヶ浦(青森県下北郡佐井村)

【菅江真澄】菅江真澄が始めて仏ヶ浦下北半島)を訪れたのは寛政4年(1792)10月8日、箭根森八幡宮を参拝してから当地まで足を延ばしたようです。当時は仏が宇多と呼ばれ、5尺〜7尺程ある大きな岩塊を材木石と呼び卒塔婆に似ていると評しています。牛引きの子供に由来を尋ねると、源義経がこの浜から蝦夷地に橋を架けて渡ろうとし、多くの材木を牛に運ばせましたが、牛が疲れ果て倒れてしまい橋を架ける事が出来ませんでした。その材木が全て石となり材木石、牛が倒れた場所にある滝を牛滝と呼ぶようになったと語っています。

菅江真澄が次ぎに仏ヶ浦を訪れたのは寛政5年(1793)4月1日、船に乗って海上から見学し、筍が何本も並んで生えたようにも、大工が削りだしたようにも見え、仏の形にも似通っていることから全面の雪が降った後のような透き通った白浜を極楽浜と呼んでいるとしています。しかし、真澄はその極楽浜よりも山の上に咲き誇った花々に心を打たれ、浜の方は関心が少なかったそうです。

真澄は寛政5年(1793)4月4日にも仏ヶ浦と極楽浜を訪れ、浜の砂は白米のように白く、歩くと雪霜を踏んだ心地がすると評し「ごくらくの はまのまさごち ふむ人の 終に仏が うたがひもなし」の詩を残しています。

【仏ヶ浦】−仏ヶ浦は下北半島を代表する景勝地で約2千万年前の海底火山の爆発などの活動により形成されたと推定されています。基本的には凝灰岩で構成されている為、表面が海からの風や波などで浸食し易く数多く奇岩、怪石が形成され、それが特異な景観となって民衆からの信仰の対象となりました。特に下北半島は恐山を代表とする地蔵信仰の盛んな所で、仏ヶ浦にある極楽浜を賽の河原、全面の津軽海峡を三途の川に見立て、浜辺には多くの小石で積み上げられた石塔(卒塔婆)が見られます。地蔵信仰とは子供が親より先に死ぬと親不孝となり子供の最大の罪とされ、子供が成仏するには高い石塔が必要ですが完成間近になると鬼が現れて石塔を壊し決して完成する事なく何度も何度も造り直します。しかし、地蔵尊を信仰すると、地蔵尊が罪のある子供を極楽浄土まで導くという教えです。仏ヶ浦には恐山と同様に死者が死ぬと一端この地に集まり、成仏した後に天界に上がるという民間信仰もあり、浜辺には地蔵堂が建立され例祭には数多くの参拝者が訪れます。江戸時代後期の文政年間(1818〜1829年)に訪れた漆戸茂樹(盛岡藩新当流師範役)が記した「奥旅路記」では 「海上より海岸に大岩立ちたる、これを一ツ仏という。極楽浜と云うは、 砂場にて、きれいなる磯辺、仏ケウタとて白岩、とがり立ちたる数々あり、 まことに奇なる岩ともなり、珍しき所なり」と評し、大正11年(1922)に訪れた大町桂月(文豪、登山家、紀行家)は「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」の和歌を残し全国的にも知られる存在となりました。仏ヶ浦は昭和9年(1934)に青森県指定天然記念物、昭和16年(1941)に国指定名勝及び天然記念物、昭和43年(1968)に下北半島国定公園に指定され、平成元年(1989)に日本の秘境100選、平成19年(2007)に日本の地質百選に選定されています。

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