菅江真澄: 三内丸山遺跡

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三内丸山遺跡

菅江真澄:三内丸山遺跡(青森県青森市)

【菅江真澄】菅江真澄が始めて三内丸山遺跡を訪れたのは寛政8年(1796)4月14日、当時の三内は周辺でも聞こえる桜の名所だったようで、花見の為に出かけました。三内の桜は一般的な桜とは異なり1本の木に2から3本の枝がささやかにあって、花に花の寄生があるような印象を受けたようです。そして小さい花がびっしりと咲き誇り鞠のような形状をして三内千本桜と呼ばれていたとされます。村人から三内村にある古い堰の崩れた所からは縄や布の模様をした古い瓦(縄文式土器の破片と思われます)や甕が壊れたような形のものが発見したと言って見せてもらい、その村人は昔、陶器を作っている人が住んでいたかも知れないと話していました。さらに、発見したものを見せてもらうと、人の顔や仮面、鎧のようなものまでありました。真澄は古墳時代の埴輪と勘違いしたようで、垂仁天皇の御代(紀元前29年〜西暦70年)に、天皇が御隠れ(崩御)すると家臣達が殉死して一緒に埋葬される慣わしがあったが、余りにも哀れな事だった事から禁止となり、その代わりに埴輪というものを御造りになって埋めたという、これはその埴輪の類のものであろう、と推察しています。

【三内丸山遺跡】−三内丸山遺跡は、5千5百年〜4千年前の縄文時代の遺跡で、長期に渡り同じ土地に人々が住み続けたと推定される全国的に見ても極めて稀な存在です。遺跡の存在自体は菅江真澄が訪れる以前からも既に知られており、弘前藩(藩庁:弘前城)の藩士である山崎立朴が記した「永禄日記」で元和9年(1623)1月2日に当地で数多くの土偶と思われる遺物が発見された事が記録されています。同じ青森県に亀ヶ岡遺跡つがる市)で発見された遮光器土偶は江戸時代には既に嗜好品として高値で取引され、かなりの遺物が乱雑に発掘された後に売買されましたが、三内丸山遺跡はその後は注視される事がなく忘れられていたようです。三内丸山遺跡が本格的に発掘調査されたのは平成4年(1992)の県営野球場を建設する事前調査によるもので、余りにも多くの発見が相次ぎ、当時の縄文時代の常識が覆す程だった為、野球場はもとより、都市計画道路の建設も計画変更が余儀なくされました。三内丸山遺跡は平成12年(2000)に国特別史跡に指定されています。

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