つがる市(歴史)概要: つがる市は古くから開けていた地域で縄文時代後期から晩期にかけての亀ヶ岡遺跡(国指定史跡)は江戸時代から知られた存在で遮光器土偶(目が以上に大きく、着ている服装などから宇宙服を着ているとも宇宙人を模しているとも言われています。)をはじめ黒、朱、丹などの色彩や多趣多様な文様、形状をもった様々な遺物が発見されこの地に独自な文化が花開いた事が考えられます。
田小屋野貝塚(国指定史跡)は縄文時代前期中頃〜中期中頃の遺跡で日本海側では貝塚がある縄文時代前期の遺跡は極めて少なく大変貴重なものとされます。
中世は安東氏や南部氏によって支配され特に隣の五所川原市にある十三湊は安東氏の本拠地の1つだった事から当地も大きな影響があったと思われます。
安東氏は現在の青森県の西側一円を支配しましたが、室町時代中期以降、南部家の侵攻により衰退し、安東下国家は蝦夷(北海道)、上国家は出羽国(秋田県)に逃れ南部家の支配となりました。
その後、南部氏の庶家である大浦光信を祖とする津軽氏が台頭し、戦国時代には宗家南部家から離反して半独立的な勢力圏を確立、天正18年(1590)には小田原参陣を果たしようやく豊臣政権から独立した大名として認められ当地も津軽氏の支配が確立しました。
つがる市一帯は江戸時代初期までは荒地の多い地域だったそうで弘前藩2代藩主津軽信枚が領内巡視でこの地を訪れた時、山林だった土地を切り開いて道を開削したことで「木作」という地名の由来になったと伝えられています。
つがる市の本格的な開発は4代藩主信政の代で木造・金木・俵元の三つの新田を管理する総奉行所が設けられ、町内には藩主の宿泊施設である御仮屋や三新田神社が再建されるなど周辺の文化、経済、行政の中心として発展しました。
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