浪岡町(歴史)概要: 浪岡町は平安時代末期平泉に本拠をもった藤原秀衡の六男頼衡が源義経の処遇を巡って兄泰衡と対立後、この地へ逃れ浪岡氏を名乗り支配したと伝えられています。
室町時代に入ると南朝の有力武将であった北畠親房の後裔が同じく南朝の南部家を頼り浪岡の地に下向したとされ以後、浪岡氏を名乗り周囲を支配するようになります(藤原浪岡氏の後裔説など諸説あります。)。
顕義の代の長禄年間(1457〜1460年)に浪岡城(国指定史跡)が築かれ中央の公家とも親交があったことから城の周囲には祇園神社、八幡神社、加茂神社、春日神社など中央縁の社寺を勧請し京都を模した町づくりを行いました。
浪岡町は当時、陸奥の小京都と呼ばれるほどの貴族文化を花開かせ「川原御所」や「浪岡御所」、「大御所」、「北の御所」などと呼ばれるようになりました。
戦国時代までは大きな影響力がありましたが永禄5年(1562)、北畠氏の内乱とも言える「川原御所の乱」が勃発すると急速に衰退し天正6年(1578)には大浦為信(弘前藩初代藩主・後の津軽氏)によって急襲され浪岡城は落城します。
江戸時代に入ると浪岡町は弘前藩に属し、羽州街道の宿場町として整備され黒石方面へ向かう乳井通りや大豆坂通りが交差する交通の要衝として重要視されます。
浪岡宿には寛政4年から本陣が設けられ弘前藩9代藩主津軽寧親から平野家が勤めるよう命じられました。現在、浪岡町は近代化され、旧羽州街道と旧国道が重なった部分も多く宿場町らしい町並みがあまり見られません。
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