むつ市(歴史)概要: 平安時代初期の貞観4年(862)に慈覚大師円仁が恐山を開山、その後、幾つかの資料に地名等が記載されるものの大きな発展は無かったと思われます。建仁3年(1203)、初代鎌倉幕府将軍源頼朝の命で工藤大和守が宇曽利郷の地頭に任ぜられますが、住民の反乱が頻発し翌年には住民により追放されています。暫くは混乱が続きますが承元2年(1208)に出生不詳の泉小次郎親衡が地頭を自称し当地を支配、安東太郎国親を称するようになります。その後、俘囚の棟梁と追われる娘と婚姻した事で地位を確立し後裔である安東盛親が宝治年間(1247〜1249年)に順法寺城を築いています。
鎌倉時代末期には家臣、新井常安が反逆し、安東元親を忙殺、その知らせを聞いた南部師行(根城南部家当主)は武田修理と赤星五郎を派遣し常安を討ち取らせ武田修理を蛎崎城に、赤星五郎を田名部城に配して当地を治めさせました。正平3年(1348)良親王が下北に下向し順法寺城に入り、北部王家を称して当地域を支配しまたが、文安5年(1448)、蛎崎城の武田信純が謀反を起こし北部王家を悉く忙殺し下北半島一帯を制圧しました。享徳4年(1455)、南部政経は「蠣崎の乱」を治める為大軍を派遣し信純を破り下北半島は根城南部氏の支配となりました(※上記の記述は軍記物である「東北太平記」を要約したものですが裏付ける資料が無く疑問視されています)。
永禄7年(1564)、九州の菊池家の一族である菊池正義が当地に土着し跡を継いだ菊池正興は根城南部氏に従い江戸時代初期には田名部館に居住しています。江戸時代初期は南部藩に属するものの根城南部氏が半独立領主として支配していましたが寛永4年(1627)に遠野(岩手県遠野市)に移封され、以降、南部藩の直接支配となり田名部館跡には代官所が設けられています。幕末の戊辰戦争では南部藩は奥羽悦列藩同盟に参加し新政府軍と戦った為大幅な減封となり、替わって同じく敗戦した会津藩が改易の後、松平容保に家名存続が許され明治2年(1869)に斗南藩を立藩します。田名部には旧会津藩領から1万7千人を超える入植がありましたが明治4年(1871)に斗南藩が廃藩になると多くが離散しました。
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