菅江真澄: 雷電宮

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雷電宮

菅江真澄: 雷電宮

【菅江真澄】菅江真澄が始めて雷電宮を訪れたのは天明8年(1788)7月6日、前日、野辺地宿で宿泊、当日朝に出立し馬門の関所で手形を出して津軽路へと入り狩場沢村、口広村、清水川村を経て、雷電宮の大鳥居の前に着きます。ただし、参拝はしなかったようで、由緒等は住民などに聞いたと思われます。それによると、大鳥居には「雷電山」の額が掲げられ、大同(806〜810年)の頃、蝦夷を討伐する為に当地まで遠征した坂上田村麻呂が「かんときの神(雷神)」を信仰していた事に因み、雷神を祀るようになったと伝えられていたそうです。さらに境内の周辺には砂浜が広がり、多くの貝殻が落ちていた事から、アサリやハマグリなどが沢山取れるのだろうと推測しています。又、境内には他に神社が建立され、神明鳥居があったと記載しています。

真澄が次ぎに雷電宮を訪れたのは寛政7年(1795)3月22日、今度はしっかりと参拝しています。当時は陸地と境内の間には潮たて川と呼ばれる、御手洗川があり、潮が満ちている時は深くなり渡る事が出来なく幅も1里(約4キロ)ある為に渡し船を頼もうとするも声が届かず断念、案内人の話によると小湊から別に渡れる場所があるとの事なのでそちらに廻り、神社の祭祀を司る雷電山日光院の修験僧に由来等を訊ねています。それによると、火災によって由緒が書かれた古文書が焼失し、現在は大同2年(801)に坂上田村麻呂が賀茂神社(京都府京都市)の分霊を勧請した事しか判らないとの事。

真澄は翌3月23日にも参拝に訪れてます。

【雷電宮】−創建年には諸説あり、延暦20年(801)又は大同2年(807)、何れも坂上田村麻呂が勧請したのが始まりとされます。伝承によると古代、蝦夷の頭領である高丸や大た基も、盤いわ具ぐ等が反乱を繰り返し、官軍も度々苦戦を強いられた為、神仏の御加護を得る為に創建されたと伝えられています。詳細は不詳ですが当初は南部の某地に鎮座していましたが、その後、東岳に遷座、さらに祭祀を司った別当が廃寺となった為、荒田(盛田)に遷座再建、文禄2年(1593)に洪水により現在地まで社殿が流され、文禄3年(1594)この事は神意であると悟り当時の福舘城の城主七戸隼人が現地に社殿を再建し改めて遷座しました。七戸隼人は天正13年(1585)、南部家の大軍が当地に押し寄せ絶体絶命の危機が訪れた際、雷電宮に戦勝祈願をしたところ、突然数千の白鳥が集まり出し、それに驚いた南部軍は自領に撤退、隼人は九死に一生を得ました。七戸隼人は雷電宮をさらに篤く信仰すると共に、白鳥は雷神の遣いとして捕食や傷つける事を禁じるなど保護した為、雷電宮の浜辺には沢山の白鳥が集まるようになり、現在は「小湊のハクチョウおよびその渡来地」として国の特別天然記念物に指定されています。江戸時代に入ると歴代黒石藩主津軽家から崇敬庇護され、社領の寄進や社殿の造営、改修などが行われ社運も隆盛し平内領(黒石藩の飛地)の総鎮守として領民からも篤く信仰されました。古くから神仏習合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され明治6年(1873)には郷社に列しています。

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